2021年1月24日 (日)

本多寿詩集『日の変幻』新聞書評

昨年暮れ、本多寿さんが『風の巣』に続いて、『日の変幻』を上梓されました。今回も依頼されて宮崎日日新聞紙上に書評を寄稿しました。その内容です。

 

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これは自然との対話から生まれた詩集である。

著者は宮崎市郊外で「鳥の囀りと風の音でめざめ/虫の声を聴きながら眠る」生活をしている。目を凝らして観ると自然界は日々変化する。「日が輝きはじめると/枝々の木の芽はたちまち芽吹き/みどりの若葉がしげった」。水の中のヤゴがトンボになり、地中の虫がセミになるように、昨日あったものが今日はない。

変化する世界は、草花や昆虫、樹木、野鳥から、村落、災害、地球、天体にまで及ぶ。そこに生起する多くの誕生と死。死を意識して生が豊かになることを静かに語っている。それでもなお襲ってくる哀しさ寂しさのなかで「空に問いつづけている/空は なぜ/こんなにも美しいのか」と。大いなるものへの問いかけに終わりはない。答えは見つからないまま「怒りに躓かず 寂しさに溺れないよう/草木に倣って生きる」しかないのだ。

日々の生活のなかでふり向けば、もの言わぬものたちが寄りそっている。「草も 木も 花も寄り添い/寄りそわれてきたもの/きょう、それを/愛と呼んでみた」。共に生きる草花や樹木に改めて勇気づけられるのである。

その認識は「犬が近づけば犬の影と/山が近づけば山の影と/わたしの影がひとつになる// あゝ 皆 おなじなのだ//わたしたち/姿かたちは 皆 異なっているが/おなじ光を与えられている/おなじ影を与えられている」と広がる。さらに「日とともに あなたをめぐる/日とともにわたしをめぐる//略//日のあるかぎり/死ののちもなお//あなたから わたしへ/わたしから あなたへ」と。命の循環で輝いている自然。そこに死を前にしての安らぎも生まれてくる。

私はこの詩集を答えの出ない事態に耐える力として、緩和ケア、グリーフ・ケアとして、さらにアニミズムと純粋詩の昇華として読んだ。

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本多寿詩集『風の巣』寸評

 昨年、第53回日本詩人クラブ賞に本多寿詩集『風の巣』が選ばれました。その贈呈式に用意した紹介文です。結局、この贈呈式は新型ウィルス感染拡大により開催されませんでした。


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本多寿さんとは若い時からのお付き合いです。私はいつも本多さんのことを寿さんと呼んでいます。もう亡くなられましたがお兄さんの本多利通さんも詩を書かれていて、両方にお付き合いがあったからです。

寿さんとは、アルコールが入るとすごくいい話になるんですね。ところが肝心の中身はいつも忘れてしまいます。ボイスレコーダーを入れておけば良かったと思うのですが、今日はそのかすかな記憶をもとに本多寿さんを紹介したいと思います。

 

寿さんは1992年に詩集「果樹園」で第42回H氏賞を受賞しています。そのタイトルが示すように、蜜柑園の一隅に居を構え、身近に樹木や草花、野鳥などと接しながら生活されています。いわばそこが詩のバックボーンになっています。その静かな場所から時代を見つめ、世界をとらえようとしています。

寿さんは「野草や昆虫がリトマス試験紙だ」といいます。人間の言動をもの言わぬ野草や昆虫にあててみるのです。そうすると現代や人間の傲慢さがより鮮明に映るのです。当然、そこから厳しい批評や批判が生まれます。

その感覚を培ったのは少年時代だと思います。寿さんは「よく山学校をしていた」といいます。学校をさぼって野山に分け入り、風の音や雲の動き、樹木や草花、昆虫、野鳥など、それらとたっぷり戯れている。言葉を使わない世界の豊かさです。それは単なる擬人化した自然ではありません。だからリトマス試験紙になる。

それはアニミズム体験といえるかもしれません。寿さんは野草の写真をよく撮りますが、その影に焦点を合わせることが多い。陰に潜んでいる何かに感応しているのです。影のなかに実在感を求めているような気がします。

『風の巣』というタイトルもそうですが、使われる言葉はそんなに難しくないのに、説明しようとするととても難しい。幻想とか、幻影とか、想像力を働かせないと見えてこない世界だからです。深遠な魂と交感するディープ・エコロジーの世界だといってもいいでしょう。

ただ、作品には「ぼく」とか「わたし」ということばが出てきます。アニミズム体験から離れてしまった自我です。とても内省的で戸惑いがあります。いわば有限と無限の間で苦しんでいる。そして「ゆらぎ」や「ざわめき」といったことばが出てきます。風をイメージさせます。風が有限と無限の境を解き、 変容をもたらす象徴として描かれています。そこに祈りも芽生えます。寿さんはアニミズムから学んだ言葉を背景に、有限という自我の痛みを『風の巣』に表現したのではと感じています。

  

そこで、詩の表現はどこから学んだのだろうかということですが、お兄さんの利通さんも優れた詩人でした。その利通さんの住む延岡にはモダニズムの詩人渡辺修三がいました。また、中原中也と親しかった高森文夫もいました。

そこに利通さんはじめ、みえのふみあき、杉谷昭人、田中詮三、金丸桝一などの詩人たちが集まってきます。寿さんは詩を書き始めた頃、彼らのお抱え運転者だったそうです。当然、彼らから様々な影響を受けることになります。

なかでも渡辺修三、みえのふみあきに影響を受けたということです。ふたりに共通するのは、一言でいえば「純粋詩」です。純粋に言葉のみで構築される美しい世界、それが詩なんだというとらえ方です。その詩を説明しようとすると美しさが消えてしまうのです。風景が美しいのではなく、言葉が美しいのだということなのです。

ですから、散文的な論理性や通時性は影を潜め、非論理性、共時性が前面に出てきます。意味連関のない二つの事象を組み合わせ、その衝突で言葉を覚醒させ、美しい情景を創作するわけです。この詩集も変奏曲風のスケッチが特徴といえるでしょう。

純粋詩の詩人たちは経験主義をもっとも嫌います。「亡くなった詩人たちがいつも肩越しに覗き込んでいるんだよ」と寿さんはいいます。ただ体験や記憶、日々の情感はどうしても付きまといます。それらをどうやって純粋詩に変換したのだろうか。

『風の巣』には、感情表現が意外に多く出てきます。それも痛みをともなっています。天空や樹木の変容、野に広がる死と生成、非在や無窮を描きながら、何かしら痛みが伝わってきます。だから美しい。でもよくわかりません。

寿さんはシンボルスカの「わからないということが命綱」という言葉をよく口にします。安易に答えを出さない。問いに問いを重ねる。もやもやしたわからなさを受け入れる。そんなことが大事ではないのか。痛みとわからなさをともなった美しさがこの『風の巣』だということです。

 

そして、アニミズムと純粋詩をかけあわせることで、経験主義を超える深い実存論「ディープ・リアリズム」を描こうとしたのではないか。これはまたゆっくり飲みながら寿さんと話してみたいテーマです。

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2017年11月28日 (火)

高千穂町秋元夜神楽

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宮崎市から東九州道を使って2時間半ほどで高千穂町向山秋元集落に着く。

秋元神社はさらにそこから20分ほど山に入ったところにある。鋭い岩がそそり立ち清水が湧き出ている。

古代の巨石信仰を思わせる。パワースポットとして名が知られているらしい。


2017年の秋元夜神楽は、11月25日から26日にかけて飯干隆様宅で行われた。近くの秋元公民館には駐車30台ほどのスペースがあり、地元出身者も含め、県内外から多くの参拝客が訪れていた。


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午後3時頃から秋元神社で神事が行われ、ご神体や面(おもて)様などが行幸の後、御神屋に舞入れられる。

午後4時頃に、開始前の食事会が行われる。これは参加者全員にふるまわれる。

この食事の提供は計4回行われた。開始前にご飯、肉うどん、肉みそ、白菜漬け、夕方6時頃大根、人参、サトイモ、シイタケ、昆布などの煮しめ、夜11時過ぎ具沢山のヨナガリ雑炊、朝6時過ぎに朝ごはんに白菜、豆腐の味噌汁の提供があった。

婦人部など女性層の協力(「神づかわれ」と背中に書かれてあった)も、夜神楽には欠かせないのである。

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夕方5時前から「彦舞」により神楽33番が始まった。

1彦舞、2太殿、3神降、4鎮守、5杉登、6地固、7幣神添、8本花、9住吉、10沖逢、11弓正護、12七貴人、13大神、14袖花、15岩潜、16五穀、17御神体、18地割、19太刀神添、20八つ鉢、21武智、22山森、23柴引、24伊勢神楽、25手力雄、26鈿女、27戸取、28舞開、29日の前、30御柴、31繰下し、32注連口、33雲下し、となる。

秋元神楽の舞は、素朴、質素で、動きが優雅である。舞い手の表情がおだやかで、自信に満ちている。舞う楽しみや喜びがこちらにも伝わってくる。

全体に調和がとれ、息の合う動きや足先も揃い、乱れがない。動きが穏やかだけに唱教も入り、一緒になって声に出す参拝客もいる。

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御神屋では部屋の照明を落として雰囲気を出している。明治27年奉納と書かれた麻衣が今でも使われている。

面は神棚に並び、着面のときには前後に二礼二拍手一礼して口には榊をくわえ、面様に息のかからないように気を配る。信仰心の厚さが感じられる。

ここは神仏混交が浸透しており、お墓には「南無阿弥陀仏」の記名や五輪塔もあった。

お囃子の太鼓、笛の音も心地よく、みんなとても上手である。相当、練習したのであろう。

舞い手と里人とのかけあい(「うまいよ」「声が小さいぞ」など)も笑いを誘い、とても楽しげである。番付によっては参加者にも手拍子を促され、盛り上げ役もいる。

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女性たちからセリ歌も出る。神楽宿全体に一体感が感じられる演出となっている。

ここでは参加者全員が氏子と捉えられ、誰でも歓待される。アットホームでフレンドリーな雰囲気がある。

そのため、県外からのリピーターが多い。聞くと遠くは長野県や九州は福岡県、長崎県、大分県から見えていた。

この山深い小さな山村に人々が集う何かがあるのだろう。



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観客に感謝やお礼のことばもあり、ファン層の厚いことが納得される。暖房器具も準備され、公民館では自由に仮眠もできる。

他の地区の夜神楽に比べて来訪者を大事する様子がうかがえる。


今回の番付では6番「地固」の動作に興味を抱いた。大国主神の国造りの舞といわれる番付だが、終わりの方で日の丸の扇を床に置き、剣を指して、その威徳を太刀に移すしぐさが見られる。

解釈では剣は「水徳」で扇は穀霊、水と土の力で穀種を育て、子授安産、悪魔祓い、家運長久の「願成就」の舞だという。

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しかし、夜神楽の原点が「お日待ち講」だとすれば、その舞には太陽信仰が流れているはずである。扇は太陽ではないか。私には太陽の光を剣に移し、その威光を生産や生活に取り入れたいとする里人の祈りがこの所作に表わされているように思えた。

剣は紙で巻いて神主に手渡される。宝刀である。26番「鈿女命」でも扇をかざして舞う仕草が気になった。

そのほか、15番「岩潜」での掛け声(ア~ア、ハッ、アリャサノサ~、ハッ)も印象に残った。



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山の自然や信仰をきっかけに、様々な人を結びつけ、共に笑い、楽しむ演出が心憎いばかりである。



人と人がつながり、助け合う思いが共有されている。自然や死者、他者への感謝、祈りなど、素朴な信仰が生きている山里であった。





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2017年8月30日 (水)

小河孝浩写真展

0001 小河孝浩の切り取る風景には、どれも自然と語らう村人たちの声が聞こえてくる。

今回の写真展では人は被写体になっていないが、農家の庭先や集落を抜ける道路、飼い犬や桜並木、空や山脈、渓谷、朝靄でさえ、人間と自然との語らいが感じられる。

それは西米良村村所という自然に恵まれた生活空間と自然を生業にする人々の暮らしが根強く反映されているからだろう。

村人たちは、日々、山や樹木、野鳥、草花と語らっている。あるいはその自然に包み込まれている豊かさを実感している。そこから生まれる安心や落ち着きが感じられる。

風景には必ず人の痕跡がある。

地形の上に刻まれた表情はどれも人間の手によって創られる。植林された山肌、花散る林道、道端の花植え、桜並木の丘、竹林や菜の花など、どれも人の痕跡が窺えるからこそ、親しみや懐かしさを感じるのである。

山間を飛ぶクマタカや渓流の小石に生えたミズゴケさえも、ずっと以前から目を向けてきたであろう人々の思いがある。

被写体としての自然が擬人化され、それぞれが村人たちに語り掛けているような錯覚にとらわれる。作品から自然の語らいや小河のつぶやきが聞こえてきそうである。

樹木や木枝の勝手なふるまい、草花のすました姿、小動物や昆虫のふざけ合いなどを、そんな楽しさを勝手に想像させてくれる。そこが小河の技術なのだろう。

納屋や薪、トタン屋根、ブルーシート、車なども意識的に撮り込んでいるが、それらさえも自然に囲まれた風景のなかに溶け込ませ、すべての被写体が同じ存在として扱われている。決して無駄なものはないように見える。

恐らく、それは小河孝浩の人間性なのであろう。生活を、自然との対話を、村人たちとの語らいを楽しんでいる。そして西米良の生活に絶対的な信頼を置いている。

美しい自然への感動はどこか人への郷愁とつながっている。小河の写真を観るとより親しみを感じられるのは、人間の生活を大事にしているからであろう。それは西米良で生活している小河の強味でもある。

さらに、工作者としての小河の今後に注目してみたい。

小河孝浩写真展「アサンポノススメ」宮崎県立美術館県民ギャラリー1
写真はパンフレットから
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2017年7月24日 (月)

火祭りと修験道

地域の伝統行事や祭りを調べていくと、何故、こんなことをやるのか、不明な点が多い。それなりに説明はされているが、ほとんどが五穀豊穣や家内安全といった一般的な解釈である。

専門家(学者)の論文などを見ても、事象の羅列やカテゴリー化、特色、伝播経路の類推などが多く、これも何故そんなことをやるのかといった疑問に答えているものは少ない。

宮崎は神話のふるさととして、地名や神社の由来として記紀神話を持ち出すことが多い。しかし、その神話を史実として信じている人はいないだろう。むしろ、記紀神話のなかに組み込まれた史実が一体何だったのかを知りたくなる。

儀礼や信仰は自然界に生きる人間として五感や情感に基づいていたはずで、それが説明できないと若い人たちからは忘れ去られ、祭りも廃れていき、新たな創造力は生まれてこないだろう。

以前、本多寿さんからの誘いもあり。朝日新聞宮崎地方版に「伝承の世界」として1年ほど連載したことがあった。こちらの想像力の赴くまま、気ままに書かせてもらったが、その後も、その興味は続いている。

夜神楽についはある程度整理できたので、今は都井の火祭り(柱松)について調べている。キーワードは「火と柱」であるが、いろいろ文献をあたるなかで修験者の関わりが強いことがわかってきた。

そこで先日、都井方面に探索に出かけた。修験者の痕跡を探す旅である。南那珂地方の神社を調べると神仏習合の色合いが濃い。真言密教系の修験者が神社と寺院を両方管轄しており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となったところも多いが、記録には残されている。

さらに修験者との関りで散見されるのが盲僧の動きである。以前、調べたことがあるが、全国からこの日向に盲僧が集まってきている。その総本山がかつて国富にあったり、聖地として鵜戸神宮があげられていたり、盲僧の動きも目が離せないのである。

専門的なことはさておき、今回、訪れたのは、串間市本城にある普門寺、都井岬の御崎神社、串間市大納にある瀧山神社、日南市外浦の日之御崎神社、栄松の行縢神社などである。

普門寺の丸山住職からは、火祭りの伝承に出てくる衛徳坊の石像らしきものが発見されたことや本城地区が湊としてポルトガル人などが寄港していたこと、永田地区に盲僧の墓地があることをお聞きした。

御崎神社は海岸の絶壁に鎮座し、ソテツの原生林に囲まれている。岬の突端にあることから海の彼方を来世、常世と思う観念などを抱いた。ここで修験者が火を燃やし、海難事故を防ぐ役割を果たしていなかっただろうかなどと考えてみた。

今回、特に印象に残ったのは瀧山神社である。ここは天然林が残り、植物群落保護林に指定されている。深山幽谷といった趣で、普段は訪れる参拝客も少ないのであろう。

かつては修験者の修行の場であり、観音堂、護摩堂、宿坊などがあったという。現在、石仏や石像とともに、朽ち果てた詰め所が残されていた。

日之御崎神社境内にはエビス様も祀られており、外浦地区を歩くと辻などで石仏を見かけた。ここでは石がご神体になっているという。石の信仰と修験道の関わりに興味を持った。

行縢神社も印象に残った。ここもエビス様や稲荷神社などを併設している。隣接して多数の石仏の安置してあるお堂がある。少し上ると墓地となっており、丸い石を置き花の手向けてある光景も見かけた。

民衆にとって山伏などの修験者の存在がいかに大きかったか、火を操り、柱を見据えて、石を祀る。生活のなかで祈祷や祈願を掌握し、民衆のこころのなかに入り込んでいった。そこから火祭りの原点を探ることができればと思う。

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2017年7月 7日 (金)

ノーマン・フィールド

Img_20170707_0001 ノーマン・フィールド著『天皇の逝く国で』(1994年みすず書房刊)を読んだ。

ずっしり重いものが胸に残った。と同時に、ほんのり温かいものが流れた。うまく整理できない。

この列島の歴史と日常生活のなかで感じる様々な差別や孤独、欺瞞、悲哀、信頼など、多方面の問題提起があり、生きる姿勢が問われる書でもあった。

解説より
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ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。高校を出てアメリカヘ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文化を講じる気鋭の学者である。

基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない〈戦後〉を生き、いまも〈太平洋の上空に宙づりの状態〉にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語。

彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そしてそこにさまざまな形で顕在化したあまたの問題に想いを巡らせた。

登場人物は、〈体制順応という常識〉に逆らったために、ある日突然〈ふつうの人〉でなくなってしまった三人―沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉職自衛隊員の夫の護国神杜合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長―と、もう一組、著者自身とその家族である。かれらの市民生活の日常にそって、問題は具体的に考えられる。
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Img_20170707_0002 関係者との会話やインタビューを聞き書きで記し、場面のイメージが鮮やかに刻印される。

進歩的知識人(エリート)の言動が、つい観念的、抽象的、理論的になり、それがどんなに正しくても、逆に人々の心は権力者の単純な紋切型の言葉に掬われていく。ポピュリズムやナショナリズムの広がりはそのことと無関係ではないだろう。

ノーマン・フィールドは、何より、市井の人々の日常生活や助け合いをとても大事にする。生まれや境遇に寄り添いながら、特に虐げられた、人間の尊厳を踏みにじられた人々の抗議に共感する姿勢がじわじわと伝わってくる。

象徴天皇制の名のもとに、日本国憲法の保障する国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という理念が、批判を許さないという同調圧力で踏みにじられている。地域や職場、学校でいくらでも見出せることである。その息苦しさはむしろ強まっている。

それぞれを一人にさせない、何気ない日常に楽しみを見出す、そのことが生きる上での価値とでもいうように、時にユーモアや詩的なことばを織り交ぜながら書き記す。そこから一歩を踏み出す勇気が生まれるのかもしれない。

取り上げられている3人の事例に、先の戦争の責任と謝罪、また被害者のなかの加害者性、加害者のなかの被害者意識など、自分の頭で考えることの大事さを改めて感じた。

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2017年6月28日 (水)

MUKASA-HUB

旧穆佐小学校がMUKASA-HUBに様変わりした。

5月下旬にオープニングが行われ、クラウドファンディングの寄付者にも招待状が届き、出かけてみた。コンセプトや施設の詳細はサイトの通りだが、ホントに素晴らしく生まれ変わった。

有限会社一平の村岡浩司社長の発案と資金調達で作られたものだが、穆佐からベンチャー企業を立ち上げるという夢とビジョン に共感した若者や青年たちが集まっていた。

今後、多国籍多言語が飛び交う場所にしたいという。すでに世界で活躍している宮崎に縁のある実業家たちが熱い思いを述べていた。

ただ、地元の人の姿をあまり見かけなかったのは残念である。折角、旧穆佐小学校の跡地利用であれば、もっと卒業生 なども関われる事業展開もあればと思ったが、これからなのかもしれない。

近くには、中世山城で有名な穆佐城や高木兼寛生家跡の穆園広場、サンスポーツランド、やすらぎの郷、蛍の飛び交う瓜田川、キュウリなどのハウス園芸農家も多く、これらの資産をリンクさせた事業も可能である。

これに民家風の宿泊施設でもできれば、ホントにこの穆佐地区は世界から人々の集う魅力ある場所になるかもしれない。

地元の人もたくさん関われるMUKASA-HUBに、ぜひ、してもらいたいものである。

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2017年6月26日 (月)

消えゆく学会

6月25日(日)に平成29年度の宮崎民俗学会総会があった。

大学時代に民俗研究サークルに所属していたこともあって、民間伝承への興味関心はずっと持ち続けてきた。県内を巡回する秋の宿泊研修会など、地元ならではの講演や接待があり、できるだけ日程を調整して参加したきた。

0001 ただ、私は専門家ではない。さまざまな興味関心はあっても学術的に研究する知識も時間も環境も持ち合わせていない。ただ、毎年発行される機関誌「みやざき民俗」だけは楽しみにしている。県内の最新の調査記録が掲載されているからである。

その宮崎民俗研究会も存続の危機にあるという。少子高齢化による会員の減少、価値観の変化による民俗事象への関心の乏しさ、印刷費の高騰などで、実質、活動それ自体が抑制されつつある。

これは他の歴史研究などを行う団体も同じだという。すでに休会にする団体も出てきた。補助金や助成金申請、機関誌への広告依頼など、打つべき手は打っているというがなかなか改善策は見出せないでいる。

加えて、民俗学が調査対象とする地域の祭りなども存続の危機にある。後継者不足、資金難、指導者の高齢化など、地区の行事なども消えつつある。

これは地域おこしも同様である。総会ではさまざまな意見が出された。ただ、決定打はなかなか見つからない。

柳田國男は経世済民としての民俗学を提唱していた。宮本常一も全国をくまなく歩きながら、地場産業の振興に協力している。今和次郎も考現学を通して、街場の風景から新たな価値を見出そうとしてきた。

単なるディレッタントに終始している限り、消え去るのは当然だろう。

今、現実的に何が問題になっているのか。民俗学の知見を活かせる分野は限りなく広いと考えている。スローフード(伝統食)から、災害文化(昔話や地名)、子育て(産育)、障がい者への関わり(異神)、ビッグデータ(考現学)まで、視点や関心の持ち方で、いくらでも提言できる豊富な内容を持っている。

それらをテーマに、広く県民に呼び掛けシンポジウムを開けばよい。助成金申請や協賛金依頼を行えばよい。そのような発言もしたが、要は現実的な問題に対する民俗学の関わり方次第であろう。

Hasu 総会の行われたみやざき歴史文化館の池は蓮の花が満開であった。

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2017年6月25日 (日)

記憶と記録

0001 宮崎公立大学公開講座を聞きに行った。

宮崎における「災害文化」の醸成ー外所地震と口蹄疫を事例にーと題して、黒田勇関西大学教授の話であった。

民間伝承などの地域文化に関心を持ってきたことと、以前、宮崎公立大学と連携して「高校生による聞き書き地域防災」という事業をやったこともあって興味を抱いた。


スロー放送
この言葉を私は初めて知った。

氏は「産地を特定した原料で地元のものは地元で調理し、料理して楽しむ、ただ食べるだけではなく、人間の健康、環境、そして地域の文化を総合したものとして食文化を捉えなおしていこうというスローフード運動」にヒントを得て、それをメディ(放送)に当てはめたという。

「放送が培ってきた文化がメディア・ビジネスのグローバル化によって、さらに加速するデジタル放送ビジネスによってまったく変えられてしまうことに対する抵抗」でもあり、「ローカルのアイデンティティや文化風土に根ざした放送、産地のはっきりした放送、つまり、送り手と受け手の顔が見える地域に根差す『地産地消』のような放送」をイメージしているという。

宮崎県の県内就職率は全国最下位である。この話を聞きながら、その要因として、氏の言われる「私とあなた、そして、私たちの空間が、「われわれ=東京」のものとして形成され、今やそれはごく自然な視聴者全体を巻き込む視線であり、空間を構築するに至った」ことと無縁ではないと思われた。

新聞記事に記者署名が増えてきている。これからはラジオ、テレビでも、誰が取材し、報道しているかを意識する時代が来ていると思った。

「地域社会における民間放送局の歴史と課題」黒田勇(参照)


外部記憶装置
これも新しい視点だった。

事件、事故の「風化」が言われる。私たちはどのように体験(記憶)を記録し、繰り返し呼び戻す機会をもつのかという課題である。

氏はスロー放送の視点から口蹄疫と外所地震を取り上げる。当日は地元メディもいくつか参加していた。関西では阪神淡路大震災を機に作られた「ネットワーク117」という番組を今も放送しているという。

死んだ人より、生き残って苦しんでいる人々の方が圧倒的に多いという事に思いを馳せ、悲しみを共有し、和らげることを切り口に続けられているという。

繰り返し報道することで、記憶を呼び戻し、防災に活かしているのである。被災をテーマにしたドキュメンタリー映画を繰り返し放映することもそのひとつである。メディアの役割である。

神戸ルミナリエで歌われる「しあわせ運べるように」という歌は、歌い続けられることで体験が語り継がれている。歌による記憶である。

私はここで隠れキリシタンで歌い続けられてきたオラショのことを思った。それはすでに数百年にも及ぶ。外所地震(1662年10月31日)の供養碑は50年おきに石碑を建てる。全国的に珍しく現在は7基目である。これも石による記憶である。

以前、取り組んだ「高校生による聞き書き地域防災」は聞き書きの記録化であったが、民間伝承(カッパ淵など)や地名(クエなど)なども記憶装置のひとつであろう。


地域アイデンティティー
この言葉も新鮮であった。

地域おこしとか、地域の特産品とかはよく言われる。しかし、これらは「地域アイデンティティー」としてとらえることができる。

災害文化も負の遺産として、地域アイデンティティーになり得る。口蹄疫で全県下に敷かれた消毒マットは、宮崎県の清潔さの指標でもあり、それだけ食の安心、安全に気を配っていることの意志表示になっているという。

しかも、これを資産として活かし、地域振興としてのビジネスにもつなげられるという。負の遺産を正の資産として活かす方法を「地域アイデンティティー」という視点は持っている。

今や日本の津波を防ぐメカニズムは世界の目標になっている。そのノウハウに世界は注目するのである。

「地域アイデンティティー」をどのように意識していくのか。顔の見える関係のなかで、メディアも、コミュニティも、食も、そこで生活することが楽しく思えるような「まなざし」を探っていかなければならないと思った。

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2017年6月22日 (木)

ハンナ・アーレント

かつて詩誌「視力」5号(2014.4.4)のエッセー補助線にハンナ・アーレントのことを書いたことがある。今、改めて彼女のことが思い返される。

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少しちじれ毛の髪、対象を見つめる黒い瞳、スジの通った鼻、薄めの唇、首を傾げ顔に手をやる癖のあるポーズ、若い頃のハンナ・アーレントは思慮的であり、とても魅力的だ。ドイツ系ユダヤ人で、ヘビースモーカーだったという。

「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」といって、最後までハイデガーの言葉を信じ続けようとしていた。彼の主著『存在と時間』(1927年)は、ハーレントと恋愛関係にあるときに著されている。1931年頃、ハイデガーはナチに入党しヒットラーを讃える演説をしている。それにもかかわらず、ハーレントはかつての愛人であったハイデガーの純真さや弱さを理解しようと努めている。

だからこそであったか。ナチス弾劾裁判(1961年)で、親衛隊長であったアイヒマンの非人間性を批難するのではなく、なぜ悲劇が起こされたのかについて関心が向かう。
裁判でアイヒマンは応える。「私は命令に従っただけです。殺害するかは命令次第でした」

これを聞いてアーレントは考える。「アイヒマンは反ユダヤではない。ただの役人に過ぎなかった。彼が二十世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ。本当の悪は平凡な人間が行う」として、これをアーレントは『悪の凡庸さ』と名付けた。

アドルフ・アイヒマンは高校中退後、1932年ナチス親衛隊入隊。1935年ユダヤ人担当課に配属され、ユダヤ人追放の執行者として頭角を現す。終戦までユダヤ人列車移送の最高責任者を務めた。

「上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまう。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう」(映画「ハンナ・アーレント」解説より)

今、次なるアイヒマンが続々と生まれてきているように思えるのは錯覚だろうか。

Hannah_2 『人間の条件』(1958年)で、ハンナ・アーレントはその思考放棄、思考欠如を危惧していた。その大きな要因に人工衛星と原子爆発の発明を上げている。それは汚れた地球からの逃避であり、その地球の爆破と映ったからである。

「地球の提供する条件とは根本的に異なった人口の条件のもとで生きなければならなくなったとき、労働も仕事も活動も、そして実際私たちが理解しているような思考さえ、もはや意味をもたなくなるだろう」という。

この地球に生きていることを思考の原点に置いていた。近代科学の知識と思考には懐疑的でならざるを得なかった。アーレントには、地球上に住むことの意味が希薄になり、「人びとの間にあることを止める」とき、知識と思考が永遠に分離されるように見えたのである。

彼女のことばに「与えられたままの人間存在というのは、どこからかタダで貰った贈り物」というのがある。今、その贈り物を他のものと交換しようとしているというのである。

「私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工的機械が実際に必要となるだろう。・・・それがどれほど恐るべきものであるにしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるであろう」と書いている。

彼女の予言は当たったように思える。最先端技術を駆使するロボット工学、あるいは原子力発電、遺伝子操作などは、少なくとも私の理解の範疇をはるかに超えている。「思考なき被造物」、それが、今、人間の代名詞になろうとしている。

人間は「死すべきもの」だからこそ、物語を作れるのである。永遠、不死に物語は生まれない。むしろ、永遠、不死の宇宙に向き合うなかで、唯一、死すべき者だからこそ、人間の任務と偉大さがあるというのである。人間の条件とは何か。改めて再考を促される。

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「悪の凡庸さ」だけでなく、AIやIoTが日常生活に入り始めてきた。労働優位の生活も余儀なくされ、「人間の条件」が明らかに薄らいでいる。

思考することを止めるわけにはいかない。アーレントは文章の最後をカトーの次のようなことばで締める。思考についてである。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」

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