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2005年12月 8日 (木)

会話力3

穆佐小学校の台風被災について、先の研究発表の折りも来校された先生方からその状況を尋ねられた。体育館の状況も当時のままとなっており、外からでも中の様子をうかがうことができた。台風被災の困難さを学校や子どもたちがどう乗り越えているか、関心を持たれた人がいたかもしれない。

でも子どもたちは、友達の被災による心の痛みとともに、多くのボランティアの人達が穆佐小学校に手伝いにきたこと、自分たちも含めて後片づけに協力したこと、そんなことが印象づけられているのではないか。自然災害の恐ろしさはもちろんのこと、それを乗り越える人々の支え合い、助け合いに、何か心地よいものを感じたのではないかと思う。

ひとりではなく、みんなで共有し、共感した体験がとても大事なことのように思う。みんなと一緒にいるということ、みんながひとりのために何かしたということ、その心地よさを味わうことができれば、あえて道徳の授業などはいらない。人助けというのはまさに心地よさなのだ。心地よさがともなわなければ、本物ではない。心地よさが強さにつながる。困難を乗り越える強さにつながる。それは自分が何かの役に立っているという心地よさだと思う。

つらい、苦しい、もうやめたいと思ったとき、支えになるのは、やはり友達である。心配してくれているという安心感が、困難を乗り越える強さを生む。何か支えになってあげたいという思いやりにも、どこか心地よさがともなう。「しっかりしろよ」でもいいし、「一緒にやろうよ」でもいいし、「お前がいると助かるよ」でもいいし、とにかく人とつながることを感じさせることばは、人に安心感を与える。

学校の勉強が「わかる」ということは、「ともにわかる」ということにならなければ意味がない。ほかの人と共有、共感を得るために、勉強しているのだと思う。新しい知識や技術は、ほかの人とつながるためにある。「ともにわかる」ということが、非常に大事なことなのだ。ひとりだけ利口になっても、ひとりだけ問題が解けても、ほかの人とつながることができなければ意味がない。人は本来ひとりだからこそ、つながるために生きているのだと思う。

誰でもわかろうとする欲求をもっている。わかりたい、ものごとのしくみを知りたいということは、つながりたいということなのだ。「あ、そういうことなんだ」とわかったとき、その子は世界とつながっている。道徳でも、できることではなく、わかることが必要なのだ。そのことが今ひとつ足りないように思う。

学力でも「できる」でとらえる風潮がまだ根強い。机上の問題は解けるが、会話のできない若者が増えている。一方で、できるできないで輪切りにされ、キレル子どもたちも増えている。台風で被害を受け、みんな協力して片付けた体験はとても貴重だったと思う。「アンタが来てくれて助かった」と何度でもいおう。「アンタが来てくれたお陰で、何とか立ち直れたよ」といわれよう。そんな会話がとびかうような地域にできたらと思う。

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