不審者
各種の子どもを守ろうキャンペーンを読んでいて、もう一つ気づいたことがある。それは不審者というくくり方である。そもそも不審者という性格づけはあいまいである。何をもって不審者とするのか。子どもにとって、知らない人はみんな不審者となる。ことここに至って、見知らぬ土地で安易に子どもに道は尋ねられない。
不審者が存在するという認識だけが強くて、不審者を生んでいるという認識は薄い。なぜ不審者なるものが生まれてくるのか。その根を絶やすことはできなくても、不審者なるものを少なくする方途を探らなければ、いくらキャンペーンを張っても限界がある。
事件を起こす犯罪者との関わりで、最近、とみに脚光をあびているのが精神医学者である。犯罪者の生い立ちや境遇、家庭環境などから、事件を起こすに至った要因を説明しようとする。個人の性格や病理に帰して、犯罪の因果関係を解こうとする。それでことが終わるだろうか。
地域でも自治会に参加しない人がいる。地区費を納めない人がいる。地区活動に関わらない人がいる。すれ違っても、ことばを交わすこともなく、不審者にしてしまう実態はないだろうか。あるいは身体、精神障害者に対しても、足手まとい、邪魔者扱いして、排除する傾向はないだろうか。
地域、学校、職場での、日頃からの排除意識が、不審者をたくさん生んでいるように思えてならない。生まれつきの不審者はいない。もちろん犯罪者もいない。どこかでつくられているのだ。生み出す背景があるはずである。
「つらいねえ」とか、「なんとかなるよ」とか、「それでいいんだよ」とか、「あんたがいると助かるよ」とか、小さいときから声をかけてくれる大人がいると、不審者や犯罪者は生まれにくくなるのではないだろうか。不審者の声かけ事案に注意して見回りすることも大事だが、もっと何かなすべきことがあるような気がする。
子どもの自立をうながすこと。励ましの声かけをすること。不審者に対して目を凝らすのではなく、身近な者に対するまなざしが、遠回りのようだが犯罪を減らす近道になるのではないかと思う。
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コメント
そうでしょうね。今はどこの国、どの場所でも似たような状況にあると思います。事件や事故が起きる毎に監視と警護が強まって、ますます息苦しくなり始めています。人類はとりかえしのつかない破局への道を歩んでいるのでしょう。
9.11以降のブッシュの姿勢や、皮肉にもイラクに参戦しなかったフランスでの暴動など、日本もいずれそうなるのでしょう。でもなんでそうなるのか考えてしまいます。でも本来オプチミストなんですよ。私。
投稿: nori | 2006年1月19日 (木) 21時57分
こころ痛める事件の多い昨今ですが、異国に住んだ経験から言うと、日本は無用心です。一瞬の油断が命取りになる異国では、強盗に会った時のためにどのポケットにお札を入れて置くべきかとか、ビル内の駐車場に車をとめてもレイプされない方法とか、高速道路で銃撃されないためには?とか、そりゃぁ大変でした。夜、女性が一人で飲みに行くなんて論外でしたし、親は子供の手を決して離しませんでしたよ。子供の自立ももちろん必要でしょうが、ボーダレス化する現実も見なくてはならないと思います。
投稿: 風狂子 | 2006年1月19日 (木) 00時56分