ま・ぬけ
田舎暮らしはスローライフである。この高岡町下倉永も今年から宮崎市に合併された。しかし、周囲は田園風景が開け、牧歌的な地域である。もちろん、道路は整備され、ここから宮崎駅まで早朝だと15分程で行ける。近くにスーパーやコンビニ、ファミレスが立ち並び、生活用品やインスタント食品、店屋物はすぐに手に入る。
ご近所や農家の方から野菜や果物をよくいただく。しかし、獲れ立てを調理するには手間暇かけねばならない。土を落とし、皮をむき、時にあく抜きをし、時間をかけねば食にありつけない。女性達の立ち話も長い。なかなか話が終わらない。妻にいわせるとそれが大事だという。確かに地域の寄り合いも多い。四季折々の行事もあるし、その準備には時間がかかる。スローライフというがのんびりではない。時間的には結構忙しい。時間がかかるからスローライフなのだ。
「まぬけ」ということばがある。拍子抜けが転じて、愚鈍とかいう意味になった。ところがよく考えてみると、経済効率性の結果、人間的にはまぬけが増えたのではないかと思う。便利さ、合理性のみが追求され、手間暇かけないことがよいことだといった風潮が蔓延していった。その結果、手順や作法、物事の道理さえわからなくなってしまっている。時間を短縮していった結果、何か大事なものが抜け落ちてしまったように思う。
時間、空間、人間、手間、世間など、間を使った漢字はたくさんある。振り返ってみると、効率性の名のもとに、なんと「間」抜けが多くなっていることか。人間も、その「間」がなくなって、単なるヒトになってしまっている。時間も、間がなくなって、一瞬一瞬の時刻になってしまっている。つながりや流れが無くなって、すべてが切れ切れになってしまっている。おそらく、そんなことも含めてスローライフ(間)が見直されているのだろう。
日本の文化は間の文化だともいわれる。演劇や舞台でも、間の重要性はしきりにいわれる。かつて旧家には仏間や床の間なるものもあった。長廊下や濡れ縁なども西欧建築からいえば、無駄な空間かもしれない。間は沈黙でもある。静かな孤独の時間でもある。白と黒を明確に区別しないフィジーな時空でもある。そこに豊かさが生まれた。
田舎暮らしがスローライフなのではない。大事なのは生活態度なのだと思う。やっぱり大変だけど、手間暇かけたものには愛着がわく。酒もじっくり寝かせたものは旨い。男と女の間柄も時間をかけて深くなる。苦労することで成長する。子育ても待つことが大事だといわれる。待つことで忍耐も生まれる。
いろんな「間」が抜けた結果、女児殺害事件にまで発展しているように思う。もう一度、「間」の重要性をとらえ直す必要があるような気がする。
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