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2006年5月 2日 (火)

詩集

詩集「交信」(本多企画)を出した。
ここ1,2ヶ月はその後始末に時間をとられていた。私は文章を書くことは嫌いではない。だけど詩となると、どうも難しくてこれまで敬遠してきた。それが周囲に詩を書く人がたくさんいたお陰で、そのうち詩のとらえ方が変わってきた。わかりやすい詩や、日常生活を詠んだ詩や、子ども向けの詩まで、楽しい詩がたくさんあることがわかってきた。私にも作れるかなと面白半分で書き始めた作品であった。詩の歴史や著名な詩人の作品もまだあまり知らないが、出会った詩に「いい詩があるなあ」と思うようになった頃であった。

詩集を200人ほどの人に贈った。ほとんど未知の人たちであったが、詩を書いている人たちが多かった。ここ2ヶ月足らずで約半数以上の人たちから感想やお礼の返事が届いた。それも手書きの封書や葉書であった。筆無精で日頃ほとんど手紙を書かない私にとって、それは驚きであった。何か別の世界に足を踏み入れたような感じであった。肉筆の文字には顔の表情と同じように、その人の特徴が現れる。活字では見られない個性にあふれていた。

次に驚いたのが、その読み手の想像力の豊かさであった。私としては詩の技法や語彙もあまり豊かではなく、何とか詩らしい体裁に整えた作品ではあったが、作者以上にその世界を広げてくれた。実際、作品は通勤途上や自然の風景、新聞記事などを題材に綴ったものが多かったのだが、それぞれの読み手の置かれた状況でとらえ方が随分と広がるものだと改めて思った。批評も含めてそれらはとても参考になり有り難かった。

その読み手の人たちの感想のなかに、詩に癒された励まされたという人の多かったことも意外であった。確かに私の作品には自分の痛みや苦さを鎮めようとする性向が自然に働いている。ただそれが他人に影響を与えることなどは、詩作しているときにはまったく考えていない。感想をもらって、その要素に初めて気づかされた気がした。

そして手書きの封書や葉書をもらって感じたのは、もちろんそれらの人たちのこころの暖かさであるが、詩を書く者どうしの親近感というか、連帯感みたいなものであった。一端、肉筆の手紙をもらうと、その相手はもう見知らぬ人ではなくなる。いちどに知り合いが増えたような気になった。この国では詩を読み、書く人は本当に少ない。だいたい周囲から敬遠されるのがオチである。ひとり静かに作品に向かうというのが一般的であろう。ところが返事をもらって、想いを共有したいと願っている詩作者がたくさんいるのだということがわかった。

返事のついでにたくさんの詩集や雑誌などが贈られてきた。その返事書きにここ1,2ヶ月時間をとられていた。また新しい同人誌「視力」にもいつの間にか参加することになり、投稿誌「禾」の原稿も締め切りが近づいていることもあって、なかなかこのブログも疎かになっていた。ネタぎれのときには、とりあえず私的なことも書きながら続けていこうと思う。

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コメント

ご無沙汰しました。昨日、四十九日の墓参りをしました(ほんとは今日なのですが、今日は仏滅なので…)。この四十日は立ち直れないまま毎日詩を書いて暮らしました。そして思ったこと…詩は文学ではなく実用品なのだということ。小説を読む体力も無く、俳句や短歌の緊張感にも立ち向かえないとき、詩がちょうど寄りそうのに適した長さでした(わたしだけかしら…?)。詩は生きることそのもののような気がします。「希望」という芽を孕まない詩(現代詩、と呼ばれるもの)が人々から遠くなるのは当然であり、その思いはわたしに詩のありようを教えました。

投稿: 風狂子 | 2006年5月 4日 (木) 09時23分

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