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2006年6月 8日 (木)

棄民

進学や就職に限らず、事件、事故との遭遇や果ては病に至るまで、自己責任論で片付けられる。そんな風潮がある。競争から生じる格差社会もその流れで語られる。そしてそれが肯定される。努力すれば報われるか。どうしようもない厭世観や虚脱感が若い人から子どもたちにまで広がっている。

他人と違う個性を磨きなさいといわれる。競争社会でうち勝っていくためには、成績も含めて、差異化を強調しなければならない。能力や資格、オタク的趣味など、他人とは違う自分らしさを演出しなければならない。努力すれば報われるといわれ、塾やスポーツ合宿に奔走する。その「差異化強迫」が小学生、中学生時分から無意識のうちに広がっている。

その一方で、ひとりになるのが怖いという「孤立恐怖症」が小さな子どもの心に芽生える。差異化がいじめの対象になって、みんなと同じことを演じなければならない。「普通」ということばが強制力を持ち始める。それは「同調圧力」となって心を蝕み、みんなと違う自分(個性)を否定的にとらえてしまう。普通にできない自分を責め始める。

差異化強迫と同調圧力との板挟みで、次第に生身の人間とつきあうことに疲れ始める。ケータイやメール、ゲームやサッカー狂、お笑い等に没頭するのはそのためである。あるいはアディクション(覚醒剤、ギャンブル、新々宗教などへの深入り)や犯罪、虐待、DV、自殺などが蔓延するのも、競争と監視で生身の人間とのつきあいに疲れるからである。現実からの逃避だといわれようと、すべてが「自己責任」で片付けられる現在、その風潮に歯止めはかからない。

それは新しい「棄民」なのだ。規制緩和と強国追随で、相談や支援を受けられない若者や社会的弱者は切り捨てられていく。テロや事件の恐怖と治安のための監視が強まるなか、終わりなきスパイラルに巻き込まれている。そんな社会に生きていることを自覚したい。

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2006年6月 2日 (金)

男らしさ

子ども誘拐殺人事件の加害者の約8.9割が男性だという(警視庁調べ)。新聞等で報じられる事件の内容をみても、それらはある程度推察できる。なぜ男性がこれほど犯罪を犯すのであろう。犯罪者を生まない社会をつくりあげるにはどうしたらよいのだろう。

どうも男の子の育てられ方に問題があるのではないか。そんなことがささやき始められている。男の子の玩具は戦闘機や機関銃などが多い。強さや力への期待や願望が醸成される。「男は涙を見せるな」とか「やられたらやりかえせ」と教えられる。男の子の世界ではある程度暴力が容認されるのである。

一方、社会に出れば競争社会で勝つことを強要される。感情表現を抑制し、何事にも耐えねばならない。そのストレスが内に向かえば自殺につながり、外に向かえば暴力につながる。自殺者の比率も男性が多い。犯罪者も男性が多い。成果主義や格差社会が進行し、ますます生きづらい世の中になりつつある。何か鬱屈しているものが社会に蔓延している。そのはけ口が弱者(子ども)へと向かう。

男の子と女の子の育てられ方の差だけではない。親と子という見方で捉え直しても、親はストレスを溜め込んでいる。核家族化がいわれて久しいが、至るところで孤立化が進行してる。そしてそこには聞き役の不在が垣間見える。悩みを聞いてくれる人や相談する相手がいない。コミュニケーション不足が様々な凶悪な犯罪を引き起こしているように見える。

反面、見つからなければ何をしてもよい、という風潮が広がっている。株価操作、耐震偽装、架空請求、最近明るみに出る社会的犯罪はほとんどこれでくくれる。羞恥心の希薄化、ジブン本位の基準をいろんな場面で見せつけられる。そして大半の男性たちが、コイズミ流の「自由な競争社会」のなかで、その男らしさに苦しんでいる。そのはけ口がまた弱者(子ども)へと向かう。加害者や被害者にならないためにも、その男らしさへのとらえなおしが必要ではないか。

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