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2006年12月11日 (月)

祓川神舞

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12月9日(土)は県内各地で重要な神楽舞が奉納された。ほとんどこの12月の第二土曜日に集中する。この日は祓川神楽に合わせて、高原町で県民俗学会の研究大会も行われ、夜はその見学となった。あいにくの空模様で神楽殿(室内)での奉納となったが、地元出身者や研究者、マスコミ関係者も含めて多くの参拝者で賑わっていた。

祓川では神楽のことを神舞(かんめ)という。いい言葉である。霧島信仰の影響がうかがわれるが、真剣や弓、長刀を用いた勇壮な舞(「神随」かんすい)が特色である。しかし今回、特に注目したのは番付の始まる前に行われる「浜下り」の行事であった。いわゆる神降ろしの神事であるが、神楽宿の老婦人がその役を担う。そして箕(みの)を通して若嫁にご神体が渡される。その箕のなかには男女の浴衣が重ねられている。神婚である。そして祝詞の後、神酒が献上される。

その後、御講屋では番付が始まり、「門境」で鬼神が登場する。そして奉仕人との間で問答が始まる。山の神に宿を乞う場面であるが、その鬼神の問いは激しく、怒りが顕わである。他の神楽でも問答はあるが、これほど激しくはない。参詣人も一瞬、その怒声に静まりかえる。これは非常に重要な儀式である。

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山の神の許しを乞うた後、「壱番舞」では小学生の子ども二人が登場し舞をまう。何故、初めに子どもなのか。頭に被った笠のまわりは白の御幣が垂れ下がり、顔は見えない。県内神楽研究家である山口保明氏は、「あれは雪ではないか」といった。翁、媼や子どもは聖なる空間への引導役を担う。

女人禁制の修験道の影響下にありながら、この祓川神舞では老若男女がそれぞれ重要な役割を担って登場する。これも他の神楽舞にはない特徴である。陰陽五行思想も舞には色濃く反映しているが、もっと原始的な自然崇拝(山岳信仰など)の形をイメージした。

外に薩摩の島津と日向の伊東との勢力争いに、霧島の修験者達が重要な役割を担ったこと、神殿に設置する大宝の注連の形が南九州特有であること、天台宗から真言密教への改宗のことなど、それらが神舞にどのように影響されてきたのか、想像力を刺激されながら、神舞は朝方まで続けられた。

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2006年12月 3日 (日)

内藤記念館

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延岡市に所用があって行ってきた。
若山牧水の歌で知られる「城山」の北側に、延岡藩主(内藤家)の御殿跡がある。小高い丘の上にあるが、現在は内藤記念館として歴史民俗資料の展示や研修施設としても使われている。以前は結婚式場としても利用されていた。そこは私にとって延岡在住時代から好きな散策場所であった。久しぶりに訪れてみた。たまたま「空の先駆者、後藤勇吉展」をやっていた。

後藤勇吉については、最近では宮崎の偉人として、小学校の副読本にも載っている。日本人最初の一等航空機操縦士で、飛行機による「日本初」の事業を次々に成し遂げている。少年時代よりほんとに機械いじりが好きだったという。1928年2月、太平洋横断の訓練中に佐賀県の山中に激突、事故死している。享年33歳の若さであった。当時の時代状況から国威発揚の意味合いもあったのであろう。しかし、彼の足跡からは何か自由な精神を感じた。

日記のなかに「俺は空を飛んで居るんだ。俺は幸福だ」と書いた後、「空を飛ぶことは孤独になることだ。何か大声で叫びたくなる。」というようなことも書かれてあった。空は期待と同時に、孤独と無常を感じさせるのかもしれない。

館を出た後、庭園に回ってみた。池や築山でデザインされた日本庭園には、かやぶき屋根の「静思庵(せいしあん)」が建っている。高千穂町三田井地区から移築された民家であるが、いまでも茶会などに利用されているという。静かで情緒的な雰囲気を漂よわせている。今、ちょうど楓が落葉の盛りであった。歴史的なたたずまいと季節の変化を見て、ひとときせわしい世情を忘れた。

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