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2007年5月30日 (水)

クスノキ群

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宮崎市瓜生野の八幡神社に樹齢800年を越すクスノキ群がある。国の天然記念物に指定されている。ここになぜこのようなクスノキが残されているのか謎とされている。集落の一角にあり、神社の入り口は保育園の遊び場になっている。園児達は毎日この巨樹の下で戯れているようだ。

10年ほど前にも一度訪れたとき、その根回りの大きさ(約16メートル)と瘤の形にいいようのない力を感じた。とにかくその巨大さに圧倒される。これは生き物である。境内に上がると神殿の奥にさらに巨木が数本、30メートルの高さで聳え立っている。樹霊が佇んでいるというより、今にも動き出しそうなマンモスがそこにいるかのようである。

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恐らくその造形に古来から信仰が厚かったのであろう、周囲には石碑や石仏が 置かれていた。しかし、人間の想像力をはるかに超えて、信仰の対象やちっぽけな願い、期待などを拒絶するかのようにこの世に現出している。巨大な不動明王でもある。

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2007年5月27日 (日)

2人展

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近くのギャラリー「鬼楽」で、鬼塚良昭さん(彫刻)と鬼塚拓郎さん(陶芸)親子による「2人展」が催されている(5月20日~6月3日)。鬼塚良昭さんについては以前紹介したが、息子の拓郎さんは陶芸をやっておられる。お二人とも遊び心満載で、木や土などを題材に、型にはまらない自由な発想を楽しんでおられる。また仕上がった作品もその置き方、見方、組み合わせなどでイメージがどんどん広がっていく。それも遊びの世界である。

先日もギャラリー「鬼楽」で本多寿氏も交えて飲んだ。鬼塚先生はとにかく出会いと語らいを大事にされる。いつもいろんな刺激をいただくが、地元大学の講義で学生達にこんなことをいったという。それは「汗をかけ、恥をかけ、手紙をかけ」ということであった。

人間は労働が基本だといわれる。それは生活を大事にするということである。作品は一見抽象的だが、きわめてリアリティに富んでいる。それは自然や生活のなかに埋もれている形を取り出されるからである。それを発見する眼が大事なのだ。

確かに差し出されるさまざまな木片や石の欠片なども、人工的に創り出そうとしてもとてもかなわない造形がいくらでもある。それを見つけるためには自然や生活に眼を向けなければならない、外に出て歩くことも大事である。見出した素材と格闘するためにも手を動かさなければならない。観念だけでなく労働という汗することのなかに、美しさを発見していこうとする姿勢がうかがわれる。

そして自分をさらけ出してみること。それが自らを高める第一歩なのだ。恥を恐れていてはいつまでも成長しない。どんなに稚拙な作品でも、他人に見てもらうこと。いろんな批評をもらうことが大きな糧になるのだという。出会いと語らいを大事にされるゆえんである。

芸術も基本はコミュニケーションである。創る行為も、見せる行為も、批評する行為も、すべてはことばが関わってくる。どんなに抽象的な作品でも、伝わりやすさを生み出すのは、どれだけ自然や人間、生活に関心をもち、語らっているかだろう。

そのコミュニケーション(対話力)を鍛えるために「手紙をかけ」といわれるのだ。創作過程におけるイメージや葛藤もことばが介在している。鬼塚先生は作品の題にとてもこだわられる。ことばを大事にされるからである。そのタイトルからもイメージが広がる。それはとても詩的である。ことばと造形によってさらに想像力を掻き立てられる。

話を聞くたびに、いつもいろんな刺激をもらっている。

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2007年5月12日 (土)

本庄石仏

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国富町田尻地区にある松森山の岸壁に石仏が刻み込まれている。高さ6メートル、肩幅1.6メートルと県内でも最大級の磨崖仏である。その端麗な姿から薬師如来像といわれており、右手を上げた施無畏印は民の恐れを去らせ、無病息災を念じている形だと伝えられている。
以前は数体の石仏があったと記録されているが、柔らかい岩質のため摩耗が激しく、現在はこの薬師如来像と日羅上人像の2体しか確認できなかった。途中に不動明王と観音像の2体が相対して刻み込まれた巨岩が山門代わりにあり(像は風化して不明)、不動明王の持つ剣先には生首がささっていたと説明板には記されていた。

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しかし、私の興味は日羅上人像であった。その石像は椎の巨木の空洞に安置され、というより、刻み込まれた岩石を巻き込むように根が張っており、それが胞衣(えな)と胎児に見えたからである。石と樹木の組み合わせは、いわゆる「宿神」の姿ではないか。古層の神であり、中沢新一のいう「胎生学的思考」の形である。その空洞はヴァギナに見えないこともない。前には歴代の僧侶の墓石が、「荒神」を見守るように並んでいた。

今年の春、都市部に異動したが、4年間通勤した路沿いの近くにこんな貴重な石仏があることを迂闊ながら知らなかった。普段はほとんど訪れる人もないのであろう。深閑とした林の一角に石仏は佇んでいた。

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