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2007年6月 9日 (土)

高森文夫とチェーホフ

詩人高森文夫が生涯愛読したのがチェーホフであった。チェーホフの何が高森文夫をとらえたのか、ずっと気になっている。

チェーホフは1860年にロシアのタガンローフに生まれる。5男1女の3番目であった。1904年、44歳で亡くなっている。生まれた翌年に農奴解放が行われているが、彼が生きた時代はまだツアーリズム(専制政治)が根強く残っていた。亡くなった翌年にロシア革命が起きており、ナロードニキ、テロリズム、無政府主義、ミニマリズムなどが渦巻き、いかに激動の時期であったかがわかる。また文学史的には、ドストエフスキーやツルゲーネフ、トルストイなどの後陣に位置するが、いわば、ロシア感傷主義からロマン主義、リアリズム、モダニズムなど、近代文学が一気に駆け抜けた時代でもあった。日本では丁度明治期にあたる。

祖父は農奴の出身であったが、読み書きに優れ、父の時代には小さな商店を営んでいる。ただ幼少時代は店の手伝いや聖歌隊への強制で、父親からは暴力や虐待を受けたという。そういえば、彼の作品には父親の存在は薄い。16歳の時、店が破産し、一家はチェーホフひとりを残してモスクワに引っ越している。その後は、彼が一家の家計を賄う宿命になる。1884年にモスクワ大学医学部を卒業し、医者となる。しかし、24歳の時に初めての喀血。医者でありながら、生涯自らの病身を抱えながら、ある意味で死を意識しながらの作家生活であった。

その時代や境遇を想起すれば、チェーホフはいわば虚無と絶望を生きたといえる。自ら生活の資を得るために書き始めた短編小説や戯曲であったが、その苦悩や葛藤が登場人物によって表明されている。28歳の時にプーシキン賞を受賞。40歳で学士院名誉会員に選出されているが、そんな賞や名誉に拘泥はしていない。実際、後日、ゴーリキーを擁護するため、学士院を辞退している。現実には生きる意味を見出し得ず、かといって死は常に身近にあり、希望もなく、そんな情況のなかで苦しんでいた痕跡が作品の随所にうかがえる。

彼はどのように生きたのか。今の段階で私が感じたのはふたつある。ひとつは深刻な情況をすべて喜劇としてとらえることである。所有地を不動産業者に売り払う没落貴族を描く最晩年の作、戯曲「桜の園」も、女優を目指し落ちぶれていった女主人公を描く、戯曲「かもめ」も、内容は深刻でありながら喜劇として作られている。そう虚無や絶望を笑うことで生き延びるしかないのだ。

もうひとつは、自らを消すことである。地位や名誉、財産、あるいは感情も含めて無化することである。彼は30歳の時に3ヶ月をかけてサハリンに行き、シベリア流刑地の生活をつぶさに調べている。そこで彼が見たものは、自分を棄てるしかない流刑者の生活であった。生きる意味はない。もちろん希望もない。自らを消しながら生きるしかない。はっきり結論づけてはいないが、それは庶民や労働者の日常生活の尊さ、自然への畏敬へとつながっていったかもしれない。

さらに岩波新書「チェーホフ」のなかで、浦雅春は彼の作品のタイトルや科白に「呼びかけ」が多いのに注目している。「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「かわいい女」などのタイトルも呼びかけなのだという。文化人類学者の川田順三の文章を引用しながら、「私たちは呼びかけによって相手を抱きしめるのだ。抱きしめるというのは、相手の存在をまるごと受け止めることだ」といっている。とすれば、チェーホフはいろんな人間を描きながら、等しく彼らを愛したことになる。絶望の淵にありながらである。あるいはこの「呼びかけ」に生き延びる可能性を賭けていたのかもしれない。

そして表現への意欲(呼びかけ)は最後まで衰えなかった。その根底には人間への信頼と自由への渇望が大きく横たわっていたのではないか。チェーホフの戯曲は「静劇」といわれる。大きな物語が解体し、中心を喪失し、絶望的な情況のなかで彼の戯曲は生まれている。問題は解決していない。「作家は問題を提起するだけでいい。」とチェーホフはいいながら、観客や読者に対してもやさしく「呼びかけ」を行っているのである。

高森文夫はそれを生涯反芻していた。多くを語らなかったのは、絶望や憂鬱を前にして、そのチェーホフの生き方に共鳴していたからだろう。高森文夫の詩作品もそれらを想定しながら読み返す必要がありそうだ。

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