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2007年7月22日 (日)

夏祭り

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粟野神社の夏祭りで、高校生の演じる獅子舞について回った。ここ数年、獅子舞を演じる高校生が減少していて、その人数確保に苦労する。半日回っても、結構いいアルバイト料(1万円前後)になるので、希望する高校生も多いのだが、部活や進学校の業者テストなどで、なかなか日程調整が難しい。祭り優先とはいかないのである。

今年も人数が揃わなくて、結局、中学3年生まで駆り出して、何とか間に合わせた。粟野神社の夏祭りは、午前中は宮水流地区、午後は下倉地区を回ることになっており、獅子舞もそれぞれの地区の高校生が演じることになっている。しかし今年はその区割りができなかった。それで祭りに参加できる両地区の高校生に全員で回ってもらうことにした。

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獅子舞は地区内の辻や交差点、他地区との境界線上で舞うことになっている。それらは魔や邪が集う場所である。だからそこでお祓いをする必要があるのだ。と同時にこの時期、稲に害虫がつきやすく、虫送りの意味もあるのかもしれない。宮水流地区で6箇所、下倉地区で4箇所の辻や交差点、境で舞った。それ以外は各家庭を回り、幼子や住民の頭を噛んで悪魔払いや無病息災、家内安全などを祈願するのである。地区住民の方々は太鼓や笛の音が聞こえてくると、門口まで出て見えて、御輿や獅子舞が来るのを待っていてくれる。そしてお賽銭を口から入れてくれる。

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獅子舞は黒白の対になっており、頭と尾に二人入る。舞方はまずうずくまる姿勢から、太鼓の響き、笛の音に合わせて、口をカチカチいわせながら、内側と外側に頭を持ち上げていく。それから膝を着いた状態で左右に2回づつ噛む。さらに立ち上がって左右にすり足で運びながら、頭を回転させてやはり左右に2回づつ噛むのである。いかに鬣(たてがみ)を揺らし大きく見せるか、顔が真正面を向いているか、前後の足がきれいに揃っているかが、舞の見せ方となる。

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今回、興味を引かれたのは獅子舞の布地に描かれているデザインであった。緑地に白の渦巻き模様が獅子舞の布地の特徴である。全国ほぼ共通している。渦巻き模様は縄文式土器も含めて、世界各地の古い神殿や動物神のリレーフなどによく描かれている。何か霊的なあるいは超越的なエネルギーが付与されているのだろう。その模様は無意識の世界から渦を巻いてわき上がってくる力強いエネルギーのように感じられる。

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祭りの始発と終着には神社の境内を3回、時計回りに回る。くるくる回るというのはやはりトランス状態になり、あの世とこの世の通路を現出させる異次元空間の創出なのかもしれない。祭りや獅子舞の意味は深く、何度立ち会っても面白い。

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2007年7月19日 (木)

獅子舞

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今度の日曜日22日は粟野神社の夏祭りである。御輿巡幸に合わせて獅子舞が演じられる。それを担当するのが、地元の高校生である。その練習が昨日から始まった。

日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉〔ききん〕、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれている。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになった。獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師〔えどだいかぐらし〕」、「伊勢大神楽師〔いせだいかぐらし〕」と呼ばれる団体が全国を獅子舞を踊りながらまわり、悪魔払いをしたのがきっかけであると言われている。

獅子舞の起源は、インド地方と言われている。インド地方の遊牧民や農耕民の信仰で神として崇められていたライオンを偶像化させた獅子舞が生まれ、宗教行事の一つになったことが始まりと考えられている。その後、チベット、中国、東南アジアへ伝わり、日本へは、中国、中国本土、朝鮮半島経由、東南アジア・台湾・琉球経由の三つのルートに分かれて伝えれられた。その後、それぞれの地域の人々によって独自の舞い方が形成され、宗教的行事や地域のお祭りに欠かせない郷土芸能として定着した。

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽〔ぎがく〕系と風流〔ふうりゅう〕系の二つの系統がある。伎楽系は獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われている。本州中部以西の西南日本で多く見られる。風流系は関東・東北地方などで行われている鹿舞〔ししおどり〕と呼ばれるもので、鹿〔しし〕の頭をかぶり胸に太鼓を付けた一人立ちの舞いで、太鼓を打ちながら踊るものである。(日本文化いろは事典より)

以上が一般的な獅子舞の解釈であろう。獅子舞も神楽の一演目である。神楽の一流儀として神官が獅子舞を伴い氏子の家々を廻って<御祓(おはらい)>を執り行なう。この神事を称して大神楽と言う。村内各戸で竈祓い(かまどばらい)を行う際に獅子舞を舞うとともに、村内産土神社境内等で、総舞と呼ばれる芸能を披露する。

しかし、私には獅子という想像上の動物と仮面、渦巻き文様など、その原初形態は神懸かり(トランス状態)になり、超越的な存在に成り代わることに意味があったような気がする。もちろん邪を払うという役割も大きかったであろうが、周囲の者は、それを見つめて、不可視の神に触れる、触れられるという状態(関係)を創り出し、自ら生まれ変わる、新たな力をもらうということに意味を見出していたのではないか。それが祭りの本来の意味でもあったのではないか。

獅子舞を若い青年(高校生)がやることも、何か深い意味が隠されていたような気がする。練習では神楽の基本的な舞方、すり足の仕方、面の位置や向き、震え方など、細かな指導がなされた。

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2007年7月14日 (土)

身体感覚

台風4号が近づいている。宮崎県のホームページ→災害情報→宮崎県の雨量・河川水位観測情報を見ると、30分おきに雨量や河川の水位情報を知ることができる。14日朝に開いてみると、穆佐小学校前の番所橋の水位がすでに避難判断水位に近づいていることがわかった。

[河川名]瓜田川 [局名]番所橋 [所在地]宮崎市高岡町小山田 [最新観測時刻]2007 07/14 08:30 [水防団待機水位]1.50m [はん濫注意水位]2.30m [避難判断水位]4.00m [はん濫危険水位]5.18m [河川水位] 3.87m 上昇中

テレビ、ラジオ、有線放送、消防団の巡回車などでも知らされるが、インターネットでの情報は刻一刻と変わる状況を知るのに大変役に立つ。また住居や避難所近辺の様子を写真にとって、集約してアップしてくれると大変ありがたい。ただ、これらはあくまで自己判断の材料でしかない。状況の変化をパソコンで見ていて、避難に遅れるといったことも起こらないとも限らない。

私は玄関先に出て、外の様子を肌で感じるようにしている。身体が判断してくれるのだ。文字情報半分、身体感覚半分という意識をどこかで持っておきたいと思う。古武道では集中力を解けという。現代スポーツでは集中力を切らすなといわれるが、古武道では逆なのだ。集中力があると一部分のみに力が入って、身体全体で的確な対応ができないのだという。つまり深呼吸して身体を解放すること、それが大事だという。身体が判断してくれるのである。脳や意識ではわからない別の力が身体には備わっているのである。

暴風雨のなかに身体を晒してみると何か血が騒ぐ。身体が反応してくるのだ。身の危険が迫っているのか、あるいは死への誘惑に駆られているのか。河川の増水や海の荒れ具合を見に行き、遭難される人が必ずいるが、その誘惑があることは全面否定できないと思う。

次第に風雨が荒れてきた。こんな事を考えている場合ではない。

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2007年7月 5日 (木)

人間ドック

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海辺の近くの検診センターで1泊の人間ドックを受けてきた。宿泊施設の窓からは45(フォーティ・ファイブ)が見え、持て余した時間を海辺の風景を眺めたり、軽い体操などで過ごした。泊付きの人間ドックとはいっても、検診自体は正味3時間ほどで終わる。余った時間はフィットネスクラブや読書、散歩などで過ごせるようになっている。いわば骨休みの日程なのである。

事前にわかっていたので、私は施設内のプールでひと泳ぎし、夜は読書に充てた。ここのところチェーホフ全集を読んでいる。彼の短編小説には様々な人間の営みが描かれている。もちろん動物を主人公にした作品もある。ただ彼の自己主張はほとんどない。淡々と日常の光景や風景が描かれていく。悲惨さを強調するわけでもなく、悲劇を誇張するわけでもない。ただそれらを含め、日常の出来事が事細かに描かれる。だから深刻さが滑稽に見えたり、正義や誠実さが愚かに見えたりもする。

誰でも感じたり、考えたり、悩んだりしたことのある内容が、作品のなかで展開される。舞台は違っても、共感できる部分がたくさんあるのである。何かに気づかせてくれているようでもあるが、それはなかなかことばにはできない。心の深いところに突き刺さっているようにも感じる。何度も読み返したくなるのは、多分、深く突き刺さった「何か」が、別な「何か」を触発するからであろう。その「何か」はわからない。しかし、それを確かめたくて再度読むことになる。そんな魅力をチェーホフの作品は持っている。どうしても指示代名詞的な言い方にならざるを得ない。

「六号室」は面白かった。何の生きる意味を持ち得ない読書好きな医者が、ある時、隣接する精神病棟を訪れ、その中のある患者と話す。その哲学的な批判的な物言いに魅力を感じ、毎日その患者と話すことが楽しみになり、病棟を訪れるようになる。そのうち医者も変人扱いにされ、精神病院に入れられ、殴られて2,3日の内に死ぬのである。一体、知識や分別、誠実さって何?と問題提起しているようにも見える。患者たちも含め、その変化していく意識が非常な説得力をもって描かれている。ここにも深刻さと滑稽さ、正義と不道徳とが混在しており、それに対してチェーホフは何ら価値判断は下していない。

人はいずれ死ぬ。何のために人間ドックなど受けるのだろう。と正常値を超えたデータの説明を医者から聞きながら、少し不思議な気持ちにさせられた。病院や健康診断にチェーホフは持っていくべきではない。

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