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2007年12月27日 (木)

漱石と近代

高森文夫と中原中也のことを調べていて、中也において自我意識の目覚めと崩壊が同時に進行していたことが気になっていた。中也はクリスチャンであった母フクから聖書を与えられ、神の存在にひとかたならぬ関心を寄せていた。近代的自我はキリスト教的絶対神を対置することによって自覚される自意識である。我と汝との関係が自らを相対化させ、それが西欧においては個人主義の基盤となり、資本主義経済の精神的な基盤になった。

ところが汎神論的自然神を信仰とする日本人にとって、あるいは儒教的精神を信奉する江戸期知識人にとって、明治以降、その近代的自我がどのように理解されていったのか。西洋思潮を受け入れるなかで個人主義や自意識、あるいは原罪という観念をどのように受け入れていったのか、興味をもっていた。

たまたま東大教授の小森陽一氏が来宮し、職場で夏目漱石の「こころ」を題材に授業をするという機会があり、久しぶりに漱石の「こころ」(新潮文庫)を読んでみた。1900年(明治33)にロンドンに留学し、「夏目狂せり」といわれるまでに神経衰弱におちいった漱石の混乱と葛藤の原因が何であったのか、関心があったからだ。

「こころ」は1914年(大正3)に朝日新聞に発表されたが、ロンドン留学からすでに10年以上を経過している。中也がその代表作を発表した「白痴群」は1930年(昭和5)であるから、その混乱と葛藤、居心地の悪さは他の文化的知識人たちにも、もっと浸透していたかもしれない。改めて日本近代とは何であったのかを考えてみた。

そのこととは別に、久しぶりに漱石を読んで面白かった。リズミカルな文章も、一種、心理劇のような話の展開も、明治期における風俗や知識人の境遇や生活描写にも興味を惹かれた。小森陽一氏は「こころ」の読みとして、それが崩れゆく明治期の倫理や精神、殉死といった国家イデオロギーに収斂されるのではなく、家族主義が崩壊した後の、孤独ではあるが、その心情を共有する自由な人間関係を築くという方に向かうべきだと述べている。

「こころ」の登場人物は主に4人である。上「先生と私」、中「両親と私」、下「先生と遺書」の三部から構成されているが、語り手である青年の私、先生、K、お嬢さん(先生の妻)の4人を中心に話しが進む。それにお嬢さんの母である下宿先の奥さん(元軍人の妻)を加えることもできよう。「こころ」にはいろんな謎が隠されている。青年の語り口も、各人の境遇や行動も、時間的経過も、遺書というスタイルも、それらが心理劇のように進行する。その謎解きが魅力でもある。それぞれは何を象徴しているのか。私の読みはこうであった。

まず青年である私は父親が危篤状態にある時、実家を飛び出し、先生から受け取った手紙を持って上京する(中)。これは家父長制の否定を意味するだろう。封建社会が崩壊し、家族が解体していく実態を示している。先生も早くに父母と死別し、財産を叔父に騙し取られながら、血族から離脱していく。大学で勉学に励み知識人として海外の文化に触れる。青年と先生の出会いが、鎌倉の海辺で外国人と海水浴を楽しんでいる先生を見かけたことにあったが、外国人(西洋近代)、海(国際)と何か象徴的である。青年もそれにつらなっていく(上)。

先生の親友であったKは寺の子息でありながら家が崩落し、養子縁組にも絶たれ、修行僧的な生き方を強いられている。小森氏はKに日本近代の自由な個人主義の可能性を抱いているが、私は逆に伝統的な日本の仏教思想や武士道の象徴として読み取った。お嬢さんに惹かれる心情を率直に親友である先生に語り、のち先生とお嬢さんが結ばれることを聞いて自殺するが、情に殉死する姿(自殺の仕方も)は廃れゆく武士道の精神を象徴しているように思われた。

当夜の懇親会でお嬢さんは先生とKとのどちらに惚れていたのだろうということが話題になった。行間から感じられるのはどうもKであるように思われる。先生の遺書では(漱石は)そのように匂わせている。結婚した先生とお嬢さんとの間に子どもがいなかった要因として、小森氏は精神で結ばれても肉体では結ばれていなかったのではないかと著書で推論している。そしてのちに自殺した先生の遺書を持って奥さん(お嬢さん)と共生していく私(青年)との関係にまで言及している。そのことが三好行雄氏との間で漱石論争(先生はコシュか-寝取られ男)を引き起こしたという。結局、漱石は「こころ」で何が言いたかったのか。

修行僧的生き方をしていたKも理想と生活の葛藤に悩み、恋愛と友情に苦しみ、結局自殺する。先生も自らの心情を素直に語れなかったことが悲劇を生んだと悩み、晩年に自殺する。その先生を尊敬する私(青年)は、先生の遺書を預かってその後どうしたのか。作品では奥さんは先生とKとの関係や心情は知らされないことになっている。そのまま生きていくのであろうか。その判断は読者に委ねられている。

お嬢さんは美の象徴であることは疑いないが、それはあまりにも危うい。軍人の妻であった奥さん(お嬢さんの母)は何か地母神的な存在である。周囲の人々や事態への対応が極めて的確で慈母的な優しさがともなっている。日本における甘えの構造(母系制社会)の一端とも読み取れる。作品では「向上心のない女性は馬鹿だ」といわせているが、当時の一般的な女性観を表明したものであっただろう。今日のフェミニズムからいえば問題小説と話題になるかもしれないが、それはまた別のことである。

西洋を受け入れていった、近代化を成し遂げていった日本人にとって、自我や個人といった自覚は未だに馴染めないものとして、あるいは孤独な寂しさとしてある。はたしてそれに耐え抜き、恋愛や友情、自由など、徹底して自己に向き合い、原罪意識を基盤とした自我に目覚めることができるのか、その問題提起を漱石は行ったのだと思う。私(青年)は先生から、まさに明治近代の「遺書」を受け取り、それを引き継いでいかなければならないのである。個をどのように確立できるか。その困難さや哀しさは中也にも共通するものではなかったか。

「こころ」の多様な読みはもちろん可能である。ちなみに当日の授業での小森氏のまとめは、個として表現すること、自己表示すること、恋愛や友情、政治的発言も含めて、今という時代を生きるにはそこからしか始まらないといっていたように私はとらえた。

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2007年12月 6日 (木)

自然の造形

Mucha 県立美術館で開催されている「アルフォンス・ミュシャ展」を観にいった。
アール・ヌーヴォ(新しい芸術)で活躍した装飾画家のひとりだが、その華やかさの割には色はくすんでいた。リトグラフの技法を使って、広告紙や本の装丁として作られたため、色が褪せてしまったのか、あるいはもともとそのような色合いだったのかわからないが、そのセピア色的な地味な色合いに興味を覚えた。

人物画の頭や周囲に草花が精密に描かれており、恐らく繰り返し繰り返し自然の様々な植物を丹念に模写した様子がうかがえる。私が特に興味を持ったのは、ツタを描いた作品であった。その葉や曲がりくねった蔓の描写は明らかに、自然の造形からヒントを得た構図に違いなかったからである。その曲がりくねった構図が装飾の図柄に反映されている。もちろん女性の顔やなめらかな着衣、細い手足なども曲線美を活かして装飾世界を創り出しているが、その原形は明らかに自然から得たものに間違いない。

ミュシャは旧チェコスロバキアの出身である。79歳まで生き延びたが、若い頃パリで活躍し、演劇のポスターや広告を描いて一躍有名になった。19世紀末の退廃と混乱の象徴とされ、戦後一時評価が下がった時期があったが、彼の描いた世界はそれだけではなかった。パリから帰国した後は、農民や労働者も描き、ドイツ・ナチズムの侵攻のなかで祖国団結のポスターも作成している。そのため、既に老齢であったにもかかわらず、ナチに捕らえられ、それが原因で体調を崩し、亡くなったという。

アール・ヌーヴォといえば華やか装飾画をイメージしていたが、そのセピア色の原因が分かるような気がした。作品の優雅さや、異国での評価と名声にもかかわらず、その作品にはどこか寂寥が漂っている。ナチズムの迫害にあったとはいえ、79歳まで生き延びた裏には、自然に対する崇拝と信仰があったのかもしれない。

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2007年12月 2日 (日)

花に語らせる

Natutubaki1_4 小春日和の休日、本多寿さんと一緒に、木城えほんの郷で開かれている「黒木郁朝の世界展」を観に行った。そこを訪れるのは7,8年振りだろうか。郁朝さんの作品展を観るのは、それこそ20年振りくらいだろう。

まだ若い頃、延岡時代に知り合ってから、いろいろ遊びに誘ってもらった。その後、郁朝さんは延岡を離れ、木城に移り住んでからは、えほんの郷の村長(トータルプランナー)という仕事で多忙を極め、なかなか地元での作品展は開かれていなかった。

延岡当時の彼の作風は宇宙を取り込むメルヘンチックな物語世界というのが一般的な感想であったが、描かれる人物像や星座、野の花、湖など、自然との対話をベースにする彼の創作態度は既に確立されていた。しかし、今思えば、私にはそのメッセージ性があまりにも強く、暗示的に配置されている題材の意味を考えるのに、少し戸惑いや疲れを感じたことも事実である。

それは画面のなかの人物が常に何かを想い、感じ、黙考しているからであり、鑑賞者もそのことを強要される雰囲気があったからである。現代社会に対する彼の鋭い批評がその作品にメッセージとして込められていたことはいうまでもない。今回、久しぶりに会って話を聞くなかで、その態度にいささかの変化のないことに、安心と信頼を覚えたことも事実である。

しかし、今回、明らかに作風が変わっていた。かつてのメッセージ性が陰を潜め、野の花を描いた小品群は、観る者を自然や宇宙、生命の世界へと誘い、作者とではなく、作品と自由に語ることを許してくれた。しかもよく見ると、背景は黒の上に、白や薄い青や赤が塗り重ねられており、見えている表面の奥にもうひとつの世界が描かれてあるように感じられた。他の作品では画面に埋め尽くされている小道具類がなりを潜め、鑑賞者の想像力に任せられているのである。その背景に深みがあるだけに、いっそう題材となった草花が対照的に活きてくる。

同時にかすれの入ったその背景は、この世のカタストロフィでもあり、あるいは裂け目、夕暮れせまる世界であったかもしれない。でも寿さんも語っていたが、結局、芸術が目指すものは人間愛ではないかと、その視点のない作品はどのジャンルにしても、感動を与えることができないのではないか、ということである。郁朝氏はそのことを「最近の絵描きは人間を見ていないっちゃね」ということばで語っていた。その意味するものは同じだろう。

冬の暖かい日射しを浴びながら、水のステージ横のベンチに腰掛け、2時間あまり語り合った。(作品はパンフレットより)

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