花に語らせる
小春日和の休日、本多寿さんと一緒に、木城えほんの郷で開かれている「黒木郁朝の世界展」を観に行った。そこを訪れるのは7,8年振りだろうか。郁朝さんの作品展を観るのは、それこそ20年振りくらいだろう。
まだ若い頃、延岡時代に知り合ってから、いろいろ遊びに誘ってもらった。その後、郁朝さんは延岡を離れ、木城に移り住んでからは、えほんの郷の村長(トータルプランナー)という仕事で多忙を極め、なかなか地元での作品展は開かれていなかった。
延岡当時の彼の作風は宇宙を取り込むメルヘンチックな物語世界というのが一般的な感想であったが、描かれる人物像や星座、野の花、湖など、自然との対話をベースにする彼の創作態度は既に確立されていた。しかし、今思えば、私にはそのメッセージ性があまりにも強く、暗示的に配置されている題材の意味を考えるのに、少し戸惑いや疲れを感じたことも事実である。
それは画面のなかの人物が常に何かを想い、感じ、黙考しているからであり、鑑賞者もそのことを強要される雰囲気があったからである。現代社会に対する彼の鋭い批評がその作品にメッセージとして込められていたことはいうまでもない。今回、久しぶりに会って話を聞くなかで、その態度にいささかの変化のないことに、安心と信頼を覚えたことも事実である。
しかし、今回、明らかに作風が変わっていた。かつてのメッセージ性が陰を潜め、野の花を描いた小品群は、観る者を自然や宇宙、生命の世界へと誘い、作者とではなく、作品と自由に語ることを許してくれた。しかもよく見ると、背景は黒の上に、白や薄い青や赤が塗り重ねられており、見えている表面の奥にもうひとつの世界が描かれてあるように感じられた。他の作品では画面に埋め尽くされている小道具類がなりを潜め、鑑賞者の想像力に任せられているのである。その背景に深みがあるだけに、いっそう題材となった草花が対照的に活きてくる。
同時にかすれの入ったその背景は、この世のカタストロフィでもあり、あるいは裂け目、夕暮れせまる世界であったかもしれない。でも寿さんも語っていたが、結局、芸術が目指すものは人間愛ではないかと、その視点のない作品はどのジャンルにしても、感動を与えることができないのではないか、ということである。郁朝氏はそのことを「最近の絵描きは人間を見ていないっちゃね」ということばで語っていた。その意味するものは同じだろう。
冬の暖かい日射しを浴びながら、水のステージ横のベンチに腰掛け、2時間あまり語り合った。(作品はパンフレットより)
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