高森文夫に影響を与えた文学者に日夏耿之介とチェーホフがいる。しかし、文夫の作品を読んでみると日夏耿之介より、チェーホフの雰囲気をより多く感じる。詩集「舷灯」のあとがきにも、生涯愛読したのはチェーホフだったと書いている。性格的にも、考え方においても、生きる態度においても、どうもチェーホフに近かったのではないか。チェーホフの何が高森文夫を惹きつけたのか。
二人の生きた時代背景を調べてみると、戦争や革命など古い体制が崩れつつある時代である。それだけ出口の見えない、夢や希望、期待などが持てない時代であることに気づかされる。つまり生きる意味をなかなか見出せない時代ではなかったかということである。生きる意味を持てないと感じた時に、人はどのように生きることができるのだろうか。死ではなく、生きることを選ぶには、世界をどのようにとらえたかということである。
チェーホフはまず生きる意味を持ち得ない状況を細かに文章化していった。価値判断を介入させることなく、とにかくことばにしていったのである。その結果、意味のないと感じた深刻さが、ある時、非常に滑稽に映ったのである。深刻にとらえる生真面目さが可笑しく感じられたのである。それはなぜだかわからない。無意識にその深刻さから逃れようと笑いがこみ上げてきたのかも知れない。チェーホフは若い頃から肺結核を患い、常に死を意識していた。しかし、自らが医者であるため、その病気を客観的に見る目を持っていた。その多様性が視点をずらす役目を果たしたのかもしれないし、本質的にユーモアを持った性格であったのかもしれない。つまり、チェーホフは生きることを喜劇としてとらえたのである。
例えば、最後の戯曲になった「桜の園」は、所有地を不動産業者に売り払う没落貴族を描いたが、内容とは裏腹にタイトルには「喜劇」と記されている。また大女優を目指しながら落ちぶれていった女を描く「かもめ」も、内容は悲劇的でありながら喜劇として想定されている。劇作家としては虚無や絶望を笑うことで、意味のない生活を生き延びる手段として考えたのである。とにかく深刻さをアイロニー、反語としてとらえる眼をもっていたということである。これは中原中也にもつながる眼である。どうしようもない状況は笑うしかないのである。
もうひとつは、繰り返される日常から眼を離さなかったということである。それがチェーホフの静劇の意味である。ドラマは起きない。生きる意味を失った時、地位や名誉、財産、あるいは知識も含めて意味を持たなくなる。残るのはただ単調に繰り返される日常の生活だけである。なぜかわからないが、退屈な日々の暮らしを見つめ通したのである。彼の初期の短編もほとんどがそのスケッチである。だから彼は作品も含めて、自分が死んだ後は何も残らないと考えていた。実際はそうではなかったが、作品のなかで彼は、自分の価値判断や自己主張を務めて隠そうとしている。自分を消し続けたのである。性格的にもシャイでラディカルだったといわれているが、生きる意味がないと自覚した時に、あえて退屈な日常生活に固執し続けたのである。死なないで生きるためには、日常に埋没するしかない。自らを無化し、消去し続けることでしかないと考えたのであろう。作品の登場人物は至るところでその退屈さを批難しているが、チェーホフは繰り返しその退屈さを描写するのである。
それは例えばサハリンへの旅が関係しているかも知れない。彼は30歳の時に3ヶ月をかけてサハリンに行き、シベリア流刑地の生活をつぶさに調べている。なぜそうする必要があったのか、よくわからないが、そこで彼が見たものは、自分を棄てるしかない流刑者の生活であった。生きる意味はない。もちろん希望もない。自らを消しながら生きるしかない流刑者の姿であった。しかしそれはある意味で抑圧された庶民や労働者の生活と同じであったのかもしれない。あるいは没落していく貴族の生活と同様であったのかもしれない。どのような階級にあろうと、どのようにドラマ化しようと人々の暮らしは流刑者の生活とそれほど変わらないということに気付いたのである。その気づきが、さらに退屈な生活を送る人々の暮らしや会話、人間関係へと眼を向けさせたのである。
三つ目は自然の永遠性を意識したということである。生きる意味がないという自覚は、どうしようもないやるせなさがつきまとう。野鳥のかもめを撃ったトレープレフは、結局、自らのやるせなさのなかで自殺してしまう。ワーニャ伯父さんも自殺しようとする。しかし、大女優を目指しながら落ちぶれてしまったニーナも、恋に憧れながら屋敷に残されたソーニャも耐えて生きることを選択する。そのやるせなさに耐える。なぜそれができたのかということである。ソーニャは医者アントロポフが語る森が人に与える役割に感銘を受けている。
例えば「谷間」という小説では、幼い息子を殺されたリーパに荷馬車のお爺さんが語りかける。「行きてりゃ、いいことも悪いこともあるさ。しかし母なるロシアはでっけえんだ」といって自然の大きさや永遠なる大地へと眼を向けさせる。チェーホフは自然の永遠性と一体化することによって労働や生活や孤独を堪え忍び、生きる力を得ていたような気がする。
生きることを喜劇としてとらえること、日常の繰り返しを大事にすること、自然の永遠性に眼を向けること、この三つがチェーホフにとっては、死の淵にありながら、生きる道ではなかったか。
しかしそのきっかけをどのようにしてつかんだのだろう。彼は作品のなかで様々な音を効果的に使っている。例えば、「桜の園」では、木に斧を打ち込む音で幕が閉じる。「かもめ」ではどこかでトレープレフが自殺する銃声が劇の終わり近くに聞こえる。「ワーニャ伯父さん」ではこれも最後の方で夜番の拍子木の音が聞こえる。「三人姉妹」でも最後に楽隊の音がでてくる。そしてオーリガに「楽隊の音はあんなに楽しそうに力強く鳴っている。あれを聞いていると生きていきたいと思うわ」といわせている。いろんな音が何かを気づかせてくれている。その何かはわからない。とにかく何かを気づかせてくれるのは、ことばではなく音なのである。しかもそれは劇の、物語の背後から聞こえてくる。その意味するものは観客や読者の想像に任されている。音で我に帰り、生きる意味を考えさせようとしているようである。
それともうひとつは「呼びかけ」である。これは岩波新書「チェーホフ」で浦雅春という人が書いているが、チェーホフのタイトルには呼びかけが多いということである。「かもめ」しかり、「ワーニャ伯父さん」しかり、「かわいい女」しかり、「犬を連れた奥さん」しかりである。すべてこれらはロシア語では呼びかけだという。ある画家の失恋物語を綴った「中二階のある家」でも、最後は「ミシュス、きみはどこにいるのだろう」というよびかけで終わる。呼びかけというのは、相手の存在をまるごと抱きしめること、抱きかかえることだという。
とすれば、チェーホフはいろんな人間を描きながら、等しく彼らを愛したことになる。絶望の淵にありながらである。死の淵にあったからこそ、人を愛おしく感じたということかもしれない。この「呼びかけ」に生きる可能性を賭けていたのだろう。その根底には人間への信頼と生きることへの渇望が大きく横たわっていたのではないか。この音と呼びかけは「ここにはないどこか」を連想させる。極めて静謐で、詩情豊かな世界である。
高森文夫はそのチェーホフを生涯愛読していた。多くを語らなかったのは、チェーホフのように自己主張せず、自らを消し続けてことに美意識を感じたのかもしれない。早くに母を亡くし、親密であった中也を亡くし、長男朔夫を亡くし、シベリアを体験するなかで、戦後も生きる意味を問い直していたものと思われる。その哀しさや寂しさを抱えて、チェーホフの作品や生き方に多く共鳴していたのだろう。
チェーホフは1904年44歳で亡くなった。4年前の2004年が丁度没後100年にあたるということで、世界中でチェーホフの演劇や展示会、シンポジウムが行われた。その後も一種のチェーホフ・ブームというものが続いている。今、格差社会といわれ、競争原理と成果主義、評価制度などで、若者も含めて多くのホームレスや都市難民が生まれている。世界では戦争が絶えない。そんな時代の雰囲気はチェーホフの生きた時代ととても似ているような気がする。
また昨年は中原中也の生誕100周年ということで新たな特集や書物が出版され、展示会などが開かれた。文夫は中也の手紙を「チェーホフを読むようだ」と言っていた。このチェーホフと中也のブームをつなぐものとして私には高森文夫が位置している。晩年は東郷町の山陰でひっそりと暮らしていた。その生涯を思う時、この日向の地で真剣に生きる意味を問うていたひとりの詩人がいたことを改めて思い知らされるのである。