清水聖策の装飾性
県立美術館市民ギャラリーで「清水聖策とその仲間たち展」をやっていた。久しぶりに清水聖策さんの絵を観た。かつて「領土シリーズ」というテーマで描いていたように思うが、最近では「水上シリーズ」に変わったようだ。今回はそれら200号クラスの絵画はなかった。(作品は「水上の浄風」2005)
そのシリーズでこの人は様々な人物を横に配列し、人の一生や、多様な性格、聖邪も含めて、人間を描き込んできた。優れたデッサン力はいうまでもないが、私はこの人の絵の装飾性に惹かれる。そういう表現が適切であるかどうかわからないが、どんな題材を描こうと「美しくなければ絵画ではない」といった信念があるように思う。
計算しつくされた構図はシンプルであるが、描かれた人物ひとり一人の物語をいろいろと空想することができる。ひとり一人は孤独でもある。恐らく清水さんは人間の一生なんて蜃気楼のようなものだと思わせておいて、しかしそれぞれの人物や人の一生を愛さずにはおられないという心境が伝わってくる。どんなに惨めな、無様な、醜い人生さえも、澄んだ眼で見つめている。それさえも美しいと感じているのかもしれない。画面は決して明るくはない。どちらかというと暗い色調であり、冷たい印象さえうかがえる。しかし、どこか良い意味での装飾性を感じるのだ。その装飾性が美しさを意識させる。
今回の作品展では8点ほど清水さんの小品が並んでいた。そのなかで私は「ラッパ」が気にいった。闇を背景に少年がラッパを吹いている。その先からメロディとともに、白い綿毛のような、白鳩のようなものが飛び出していく。非常にシンプルな絵であるが、ここにも抑制の効いた装飾性を感じるのだ。そういえば、先の水上シリーズでも必ず楽器を手にした人物が描かれていた。楽器を配置し、音楽を奏でる(意識させる)ことで、絵画の平面性を越えようとしているのだろうか。あるいは弦や笛の音に何か超越的なものの存在を意識させようとしているのかもしれないと感じた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント