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2008年1月19日 (土)

杉田文庫展

先日、宮崎県立美術館に「美のひととき展」を観にいった。そのなかで瑛九の独創性や先見性に改めて驚いた。この地に生まれ、どのような影響を受け、その感覚をどのように磨いていったのか。その謎解きがひとつわかったような気がした。それは昨日の昼休み、近くの県立図書館に出かけてみたときだ。ここでは「図書館の隠れた名品たち(杉田文庫展)」が開かれていた。わたしは杉田直のことをあまり知らなかった。

杉田直は明治2年大阪に生まれる。佐土原藩士であった父が藩の更進生として大阪に赴任していた。明治5年に帰郷。明治21年19歳のとき、先の高鍋藩主・秋月種樹に漢詩を学ぶ。医学の道を志し上京。明治24年に独学で医術開業試験に合格。明治28年夏26歳のとき、日本眼科の父と称された河本重次郎に師事して眼科医としての道を歩み始める。秋月種樹や高木兼寛に激励されてのことという。明治31年帰郷して眼科医院を開業。宮崎で初めての眼科医院の開業であった。明治44年二男秀夫が生まれるが、それが後の芸術家「瑛九」である。

Img_3288 また直は俳人杉田作郎としても活躍する。俳句の出会いは東京時代に遡る。「秋声会」時代の戸川残花、「ホトトギス」での夏目漱石、高浜虚子、内藤鳴雪など、当代一流の人々と交友を深めている。その後、作郎は荻原井泉水主宰の「層雲」に共鳴し、自由律俳句へ傾斜していく。そのきっかけには種田山頭火の来訪もある。山頭火は「行乞記」のなかで「夜はまた作郎居で句会、したゝか飲んだ、しゃべりすぎた、…予想したような老紳士だった、二時近くまで四人で過ごした」と記している。俳人杉田作郎は正岡子規の「ホトトギス時代」、河東碧梧桐の「新傾向時代」、荻原井泉水の「層雲時代」、と三つの時代を通じて3万句にものぼる句を詠んだ。昭和35年12月7日永眠、91年の生涯であった。 「柿の赤さはつゝみきれない」作郎(写真は宮崎神宮東神苑にある句碑)

一方、瑛九は本名・杉田秀夫。1911年宮崎生まれ。15歳で『アトリヱ』『みづゑ』など美術雑誌に評論を執筆。1936年フォトデッサン作品集『眠りの理由』を刊行。翌年自由美術家協会創立に参加。既成の画壇や公募団体を批判し、戦後、デモクラート美術家協会を創立。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、細江英公ら若い作家たちに大きな影響を与えた。油彩、フォトデッサン、版画などに挑み、独自の世界を生み出す。瑛九の作品は実に多彩である。当時まだ新しい技法であった銅版画、石版画にも独学で取り組んだ。表現様式も印象主義、シーュルレアリスム、キュービスム、抽象と次々に変転している。1960(S35)年48歳で永逝。

恐らく、瑛九はその父親の影響下に育ったといえるだろう。自由律俳句はその大きなきっかけになったかもしれない。若くして自由闊達な批評精神を培っている。しかし、直の交友関係の広さには改めて驚かされる。柳田国男がその民俗学の端緒を開いたという椎葉体験(「後狩詞記」を記す)の時、椎葉に行く前に宮崎で杉田直に会っている。明治41年夏のことである。そのことは今回初めて知った。彼らはほぼ同世代である。

それから佐土原藩の祈願寺住職であった野田泉光院が著した「日本九峰修業日記」を1935(S10)年に直は編集出版している。自らのルーツ探しがあったのかも知れない。「六十六部廻国供養塔」(長曽我部光義、押川周弘共著)はこの書物から触発されて、宮崎での六十六部廻国塔調査を始めたと聞いている。杉田文庫に残された資料には、その豊富な内容から、今後、新たに光をあてられるべきものがたくさんあるような気がする。その発掘のなかにこの地における文化的土壌の豊かさも見えてくるかもしれない。

この杉田文庫展では、夏目漱石の直筆の手紙にも興味を持った。行間(空白)をたっぷり取り、何か気品を感じさせる文字であった。直との関係がどのようなものであったのか、当時どんな話を交わしたのか、興味はつきなかった。

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