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2008年2月24日 (日)

蕗の薹

Img_3314 二月も下旬に入ったとはいえ宮崎でもまだ寒い日が続いている。だが、昨日は春一番が吹き荒れた。全国的には死者も出るほどの被害が出ている。風のおさまった午後、久しぶりに庭に出てみた。垣根の下にフキノトウが芽を出している。いつの間にか、春はそこまでやってきていたのだ。黄色味がかったフキノトウにはやはり早春の光を感じる。土の精霊が顔を出したように輝いている。春の日射しによってフキノトウも初めてのように濃い陰影を持ち始める。

この地における光の特色とは何だろう。私は真っ先に夜神楽の戸取りの舞を思い出す。それは夜を徹して舞われた後の、朝日のご来光の場面で演じられる。長く寒い夜(闇)を体験することによって、初めて顕れる日の光である。夜神楽を体験すると、この夜と闇がいかに重要視されているかがわかる。光を再生させるために禊ぎや鎮魂の儀礼を行い、祈りを捧げ、再来を願う。人々が自然の神々にひれ伏して、待ち焦がれた後にやってくる光なのである。

そこには山川草木、鳥獣虫魚も含む全宇宙の循環が思念されている。と同時に谷川健一が指摘したように、青島のアオ、オーは死者からの光である。海辺の洞窟に漏れくる光線を、古代人はオー、アオと呼んで死者の魂が寄り来ることと想念した。夜神楽のなかにも当然、死者の光が充満している。それは必然的に沖縄における海の彼方にある神の国「ニライカナイ」へとつらなっていくだろう。それら光の文化を考える時、島尾敏雄のヤポネシア文化論を忘れることはできない。

中村地平の南方文化もいくらか似ているとはいえ、単なる浪漫主義の限界を超えて、その光(闇)の文化は豊かに広がっている。日向を限定的にとらえることは意味がないことに気づいてくる。聴こうと思えばフキノトウの光と闇のなかにさえ、全宇宙の叫びが潜んでいるはずである。

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2008年2月19日 (火)

中村地平と南方文学

2月は中村地平が生まれ、亡くなった月である。そして今年は生誕100年目にあたる。宮崎の文学を語るとき、中村地平の「南方文学」は避けて通れない。その功罪は別にして、この地に住み、その思いを表現しようとすれば、否応なく地平が感じた南方の光と影を想わざるを得ない。

「べつだん、とりたてていうほど奇矯な風景ではない。ごくありきたりな田舎の眺めをもっているにすぎない。しかし、そのくせ、その風景は、よその土地ではけっしてかんじることのできない、一種独特な調子、もち味といったものを持っている。どことなしに澄んだ、南方的なかがやきのある、そのくせ古典性に共通なあるふかい悲しみをかくした、一種の調子-うっかりすると、ついみおとしてしまいそうな、味のこまかい感覚的な調子を持っているのである。」(中村地平「日向」より抜粋)

ここに感じられるのは気候的な風土性と、そこから呼び起こされる幽玄な神話性、そしてプリミテブな生活から生まれる物語性である。地平が「南方文学」を提唱したのは、1940年(昭和15年)である。高森文夫はすでに前年、満州国に渡っている。政治状況としては太平洋戦争勃発の前年である。しかし、地平のなかには当時の政治状況と「南方文学」とを関連してとらえた気配はない。ただ、恐らく時代状況として急速な近代化で疎外意識は感じていただろう。その時、日向の地における、あるいは台湾の地における風光と哀惜に癒しを感じたとしても不思議ではない。

地平が提唱した「南方文学」というイメージからは、私はやはり海、山、川、田園などを想起する。そしてそれらを浮き彫りにする陽光である。その光を文学としてどのようにとらえるのか。それが「南方文学」の核であるような気がする。かつてみえのふみあきさんは渡辺修三の詩に透明な光を見出した。富松良夫の詩には清澄感あふれる光を読み取った。そして神戸雄一の詩には緩やかな散文的な光を感じている。日向の地においても実に多様な光が輝き、あふれているのである。

湿潤により境界のはっきりしない光の世界が「許容の文学」としての特色を出そうと、あるいは「癒しの文学」としての機能を形成しようと、「南方文学」のバリエーションはこれからも創られ続けていくだろう。地平は従軍体験を経るなかで、戦後、「南方文学」を棄てたといわれる。しかし、彼の作品にはその光は生き続けているように思う。どのような状況であれ、どのような世界であれ、自然のなかに可能性を秘めた根源的な光を見出すこと、それを表現すること、そのなかに「南方文学」の可能性もあるように思った。

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2008年2月11日 (月)

塔和子の世界

詩誌「黄薔薇」が送られてきた。岡山県で発行されている詩誌である。今号は塔和子さんの特集が組まれていた。塔和子全詩集3巻の刊行を記念に組まれたものである。

しらじらと続いている
この道の傍(かた)えに
一本の柱が現れたら
私は
柱が砕ける程抱きついてやろう
そして
頬ずりし
耳をくっつけて
柱のささやきを聞こう
その
地より天に直立する
立体の頼もしさに涎(よだれ)を流そう
その
動かない姿勢に対(む)かって
全身をぶっつけ
柱の愛撫を受けよう
ああその
唯ひとつ人間に残された支柱よ
依存の優しさよ
人間を待伏せしろ

塔和子の第一詩集「はだか木」の一編である。以前、映画「-闇を拓く光の詩-風の舞」を見たことがある。塔和子さんの半生を描いた作品である。13歳でハンセン病を発病。以来、故郷を離れて国立療養所大島青松園に強制隔離され、苛酷な人生を余儀なくされた。その生活のなかで詩に出会い、詩を生きがいにして、数多くの作品を創ってこられた。第15詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞されている。

1960年頃、永瀬清子さんに誘われて詩誌「黄薔薇」に参加されたという。最近まで私は塔和子さんを知らなかった。先の映画や高見順賞を受賞してから、にわかに全国に知られるようになったのではないか。

しかし、その詩は胸を打つ。掲載詩は三十代の頃の作品であろうか。平易な詩句ではあるが、内容は激しい。塔さんにとって柱とは何であろうか。敬虔なクリスチャンというから、神かもしれない。「唯ひとつ人間に残された支柱」という言葉からは純粋な精神、崇高な道徳律も感じられる。苦しみや迷い、寂しさや怒りなど、それらを突き抜けたところに現れる光明のようなものだろうか。最終連の「人間を待伏せしろ」という詩句も、なんと力強く、勇ましいのだろう。読者までが励まされてくる。

それほどまでに待ち焦がれている気持ちが、ただ一途に求める気持ちが、激しい言葉となって表現されている。自らを支えてくれる支柱を求めるのであろう。その対象(柱)を純粋に見据えているがゆえに、言葉は激しくとも、清澄で透明な世界が広がっている。

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