中村地平と南方文学
2月は中村地平が生まれ、亡くなった月である。そして今年は生誕100年目にあたる。宮崎の文学を語るとき、中村地平の「南方文学」は避けて通れない。その功罪は別にして、この地に住み、その思いを表現しようとすれば、否応なく地平が感じた南方の光と影を想わざるを得ない。
「べつだん、とりたてていうほど奇矯な風景ではない。ごくありきたりな田舎の眺めをもっているにすぎない。しかし、そのくせ、その風景は、よその土地ではけっしてかんじることのできない、一種独特な調子、もち味といったものを持っている。どことなしに澄んだ、南方的なかがやきのある、そのくせ古典性に共通なあるふかい悲しみをかくした、一種の調子-うっかりすると、ついみおとしてしまいそうな、味のこまかい感覚的な調子を持っているのである。」(中村地平「日向」より抜粋)
ここに感じられるのは気候的な風土性と、そこから呼び起こされる幽玄な神話性、そしてプリミテブな生活から生まれる物語性である。地平が「南方文学」を提唱したのは、1940年(昭和15年)である。高森文夫はすでに前年、満州国に渡っている。政治状況としては太平洋戦争勃発の前年である。しかし、地平のなかには当時の政治状況と「南方文学」とを関連してとらえた気配はない。ただ、恐らく時代状況として急速な近代化で疎外意識は感じていただろう。その時、日向の地における、あるいは台湾の地における風光と哀惜に癒しを感じたとしても不思議ではない。
地平が提唱した「南方文学」というイメージからは、私はやはり海、山、川、田園などを想起する。そしてそれらを浮き彫りにする陽光である。その光を文学としてどのようにとらえるのか。それが「南方文学」の核であるような気がする。かつてみえのふみあきさんは渡辺修三の詩に透明な光を見出した。富松良夫の詩には清澄感あふれる光を読み取った。そして神戸雄一の詩には緩やかな散文的な光を感じている。日向の地においても実に多様な光が輝き、あふれているのである。
湿潤により境界のはっきりしない光の世界が「許容の文学」としての特色を出そうと、あるいは「癒しの文学」としての機能を形成しようと、「南方文学」のバリエーションはこれからも創られ続けていくだろう。地平は従軍体験を経るなかで、戦後、「南方文学」を棄てたといわれる。しかし、彼の作品にはその光は生き続けているように思う。どのような状況であれ、どのような世界であれ、自然のなかに可能性を秘めた根源的な光を見出すこと、それを表現すること、そのなかに「南方文学」の可能性もあるように思った。
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