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2008年3月16日 (日)

翁草

Img_3355 庭に出てみると翁草が花をつけていた。
もうずいぶん前に人様よりいただいて岩陰に植えていたが、花もつけず、そのまま放置していた。一昨年、ふと思いついて日陰からいくらか陽のあたる場所に移植してみた。すると早速次の年の春に花をつけたのだ。

今年は二年目に当たるが、春が近づきしっかりと花をつけていた。この翁草はキンポウゲ科の多年草で、絶滅危惧植物Ⅱ類に指定されている。最近では目にすることも難しく「幻の山野草」になりつつある。春到来の3月頃になると、可憐な美しい花を咲かせる。5月上旬頃になると(花期が終わり)種子をつけるが、一粒一粒の種子の先端に、2cm位の白い糸状の綿毛のようなものをつける。この時の様子が高齢者(翁)の白髪のように見えることから「翁草」と命名されている。

渡辺修三の詩集「山ノコドモタチ」(未発表)のなかに「オキナグサ」がある。

ハル 四月ノコロニナルト ノハラニ タクサン オキナグサノハナガ サキマス。 オキナグサハ アナモネトイフハナニ ニテイル ウツクシイハナデス。コノハナハ ウシモ ウマモ タベマセン。オキナグサノ ハナガサクト 山ノムラニ ハルガキマス。

渡辺修三は延岡市尾崎町に生まれる。1921(大正10)年旧制延岡中学を卒業、早稲田大学英文科に入学。西条八十に師事し、村野三郎らの詩誌『棕櫚の葉』や佐藤惣之助の『詩之家』に参加し、久保田彦穂(椋鳩十)、潮田武雄とともに『詩之家』の三羽ガラスといわれた。(略)渡辺家は代々庄屋だったが、明治時代に入り、父民三郎の代になると酒造業を営み、後に山林業に転ずる。民三郎は徳富蘇峰の「国民新聞」を愛読し、1899(明治32)年、26歳の時に初めて徳富蘆花に出会い、終生師事し親交を重ねた人である。生家の書庫には2万巻の書物があったという環境で育った修三は、中学時代からトルストイ、シェンキイッチ、ツルゲーネフなどを読み、すでに漢詩や詩歌を書いていた。また、兄謙二郎は画家、弟小五郎は彫刻家であった。2人とも若死にしているが、それぞれに優れた才能を開花させての死であった。(みやざきの百一人より))

先の「オキナグサ」はこの野草のスケッチであるが、この花を見るたびに私は、渡辺修三が見つめた時の心境に想いを馳せる。家の都合で帰省し、黒岩園という茶園を継ぎ、延岡の地で詩作を続けた渡辺修三の詩境が反映されていないだろうか。単純な詩句ではあるが、「山ノムラニ ハルガキマス」というい最終連に万感の思いを感じるのである。

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2008年3月10日 (月)

詩の話

Img_3352 近くの水田ではもう早期水稲の田植えの準備が始まった。田に水を張った後、土が水に馴染むまでしばらくはそのまま放置されている。一面、鏡を寝かせたように空を映している。この光景を見ると、毎年、何かが動き出しそうな気配を感じる。

昨日は本多寿さんとみえのふみあきさん宅を訪問した。今年の「卯の花忌」の講演をお願いするのが口実であったが、いつもいろんな話を伺えるのが楽しみである。
「1960年代以降の詩はつまらなくなったね。50年代の詩に比べて、今から読み返してみると、色あせてみえる。時代の影響を受けるのはしかたないけど、広がりや深みがない。」というような話から始まった。荒地や列島、櫂など、戦後における同人詩の傾向や運動が話題に上がった。オートマチズム的な詩が、当時、流行ったとしても、広く暗唱される詩としては残らなかったのは、恐らく流行やムードで書いたからではなかったか。情緒や抒情の必要性も話になった。

60年代以降、安保を機に政治と文学も華々しく論議されていた。鮎川信夫と関根弘との間に論争があったことは初めて知った。体制翼賛も反戦平和も同じパッションがあるという鮎川の指摘は以前も聞いたことがある。そのベクトルに意味があるという関根の気持ちもわかる。詩を誰に読ませるのか。詩は飢えた子どもを救えるか。というテーマはこれまでも繰り返されてきた。なかなか結論はでない。しかし、詩は何かの目的のための手段ではない。

保守的な、常識的な思考では、言語芸術は生まれない。革新的で常識を覆すような詩はなかなか理解されにくい。しかしそこに前述した情緒や抒情が含まれていると、わからなくとも何となく共有できるのではないか。「嵯峨信之さんの詩はいいですね。」と水を向けると、「嵯峨さんは晩年まで詩が衰えなかった。珍しい詩人だった。」と応えてくれた。詩人は晩年になると詩の内容がまとまらなくなると、みえのさんはいわれた。恐らく、自らの体験や渡辺修三の「塩と天幕」「亀裂ある風景」などを想起されていたのだろう。

真の意味で口語詩を確立した高村光太郎や、詩としてはそれほどすぐれた作品はなかったという中原中也なども話題に上がった。たまたま三人ともデジカメを用意していて、最後に写真を撮りまくった。今のところみえのさんの体調は良いようで、卯の花忌の講演が楽しみである。テーマは「リアリズムの虚実」と決まっている。

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2008年3月 2日 (日)

雛山

Img_3328 休日の昼下がり、綾町の「雛山まつり」に行ってきた。
町内17箇所で雛山が飾られ、見物人で賑わっていた。案内パンフレットによると綾の「ひな山」は江戸時代にはじまり、北麓の梅藪地区が発祥の地だという。山の神である女性をお祝いする祭りである。

「貧しい生活の中で、長女が生まれると親戚や隣近所の人たちが、粘土で土人形や木の枝で木製の人形などを作り、山や川で拾ってきた巨木や古木、奇岩、輝石を飾り付け、花木などを持ち寄って奥座敷に山の神が住む風景を再現したものがひな山の始まりであると伝えられている。」(パンフレットより)しかし、もっと別な背景があるように想う。

山はもとより母胎である。山や川で拾ってきた「巨木や古木、奇岩、輝石」とは、恐らく宿神であろう。巨木信仰や巨石信仰の名残りも感じる。奇岩、輝石はその造形や形象から陰陽五行の思想性も反映しているかもしれない。それらを集めて自然のエネルギーを取り込もうとしたのだろう。

さらにこれらを使ってひな山を創るのであるが、母胎再現のなかには当然、エロスも隠されている。巨木や古木は男根の象徴であったかもしれない。生殖、生産は豊穣を願う人間にとって必要欠くべからずのものである。そこにエネルギーも蓄積される。また必ず苔をひな壇の周囲に植栽するが、これも陰毛とみられないこともない。とすると、ひな山とは巨大なヴァギナではないか。雛段に並んだ面々は豊穣を約束する嬰児(みどりご)たちであろう。などと、かってな想像をしてしまった。

Img_3326 綾工芸村(綾町入野)の「ひな山」は巨大なものであった。自然の地形を活かして、水路を引き、雛人形も木材を使って、大胆に加工したものである。聞くところによると、いろんな人々の協力で作られたらしい。この共同作業ということも、ひな山造りの大事な要素であろう。女を祝うために、恐らく男たちが必死になって奉仕したことは疑いない。綾は照葉樹林の宝庫でもある。その山(女)を大事にすることのなかに、綾工芸の芸術思想や伝統技術を磨くベースがあるのではないかと思った。

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