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2008年6月24日 (火)

龍之介の句

 俳句についてはまったくの素人だが、芥川龍之介の俳句を調べていて次の句に出合った。


 木枯らしや目刺にのこる海のいろ(芥川龍之介)

 海に出て木枯らし帰るところなし(山口誓子)

 木枯らしの果てはありけり海の音(池西言水)


 年代は順に大正7年、昭和19年、元禄3年作となっている。いずれも「木枯らし」と「海」を題材にした俳句だが、その作られた時代と作者の心情が想起されて印象に残る。いずれも代表作としてよく知られており、言水の作品が引き金になってそれぞれ後者の句ができたものといわれている。

 しかし、私にはやはり龍之介の句が印象に残った。「目刺」という魚介類に凝結された哀愁と追憶がひときわ独自の色彩を放っている。芥川の俳句には木枯らしを詠んだものが多いが、これもそのひとつである。木枯らしを意識すると、寒風の吹き荒れる浜辺での目刺しを想い浮かべるが、記録によると長崎の知人から贈られた小包に目刺しが入っていてそれを詠んだという。手にとった目刺しから海を想像したのだろう。干物になっても海のいろ(群青色)を残しているのはウルメイワシだろうか。死と生が鮮やかな対比で造形されている。「のこる」という自動詞が哀惜の念をいっそう掻き立てる。その繊細な感受性は他の作品にも見受けられる。


 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

 初秋の蝗(いなご)つかめば柔らかき

 更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁(どじょうじる)


 いずれも小動物を題材にした作品であるが、泥鰌汁の句など「上ぬるみけり」ということばからはどうしようもない倦怠感や不安感を暗示させられる。うまく説明できないが訳の分からない息苦しさや雰囲気が漂ってくる。もちろん泥鰌という庶民的な淡水魚の生態や、泥鰌鍋という料理や嗜好も関係しているだろう。生きる望みを失ったといえばそれまでだが、そんな退廃的な気分も感じられる。そういえば35歳で自殺した龍之介の辞世の句は次のようなものであった。


 水洟や鼻の先だけ暮れ残る


 辞世の句といわれなければ、滑稽ささえ感じさせる作品だが、彼のアイロニーや「自嘲」(この作品の短冊に書かれていたことば)の意味が痛いように伝わってくる。「鼻の先」は己を象徴しているのだろう。「暮れ残る」という詩語が痛ましさを感じさせる。先の木枯らしの句にも「のこる」という動詞が使われていた。追慕があるとしたら、一体どのような対象であったのだろう。すべてを失ってもなお「のこる」自意識への矜恃とやるせなさがひときわ孤独感を引き立てている。母親が狂死し、幼い頃から伯父に育てられたという。龍之介も常に狂死の恐怖と想念にとりつかれていたのかもしれない。

 俳句に関しては、芭蕉を徹底して研究し、惚れ込んでいる。鎌倉在住時には高浜虚子からも添削を受けている。田端に移り住んでからは、飯田蛇忽や久保田万太郎らとも交流している。しかし当時の「アララギ」や「馬酔木」といった近代俳句には目もくれていない。龍之介の何が芭蕉へと向かわせたのかよくわからないが、芭蕉を通して、あるいは江戸俳句を通して、龍之介は自己を対象化し、戯画化して自らの生をとらえている。芥川は短編小説を多く書いたが、それらはどこかで彼の俳句と通じるものがある。彼のアフォリズムも俳句を通して培われたものであったかもしれない。

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2008年6月23日 (月)

サノボリ

Img_3453  この地区には「サノボリ」行事が残っている。従来は田植後に田の神を送る祭りであった。サノボリのサは神々の総称であるから、サのつく信仰行事は多い。だからサノボリは、田植えを終え、田の神が帰り上がることだともいわれている(関東以北ではサナブリとも呼ばれている)。田植仕舞いの直会(なおらい)または休日のことでもあるが、今ではほとんどの農家が早期栽培で稲を植えているので、実際の田植えは3月頃には終わっている。今はもう青々とした稲が伸びている。ただこの時期に行う風習だけは生きている。

 今年は22日の日曜日であった。この日は早朝に近くの学頭橋で水神様への神事が行われ、その後、穆佐団地センターで地区民の球技大会(ミニバレーボール、ゲートボール)が催された。午後からは各班ごとに分かれて宴会がくりひろげられた。私も今年は班の世話役が回ってきている関係から、その準備で朝から大忙しであった。このサノボリ行事は、いってみれば、年に一度の地区親睦会である。かつては田植えは共同作業であった。「結(ゆい)」ともいわれ、日を定めて一家総出あるいは村総出で行われていたのである。そのつながりを確認する意味は今でも残っているのだろう。

Img_3452  球技大会には中学生から、もちろんお年寄りまで参加する。年々参加者が減ってきているとはいえ、総員150名ほどは参加しただろうか。小さい頃から知っている子どもたちが成長し、あるいは社会に出て、久しぶりに出会う場でもある。私もこの地区に住んで15年以上が経過したので、子どもたちの顔はだいたい覚えている。顔と名前の一致しない人たちもまだいるにはいるが、班ごとにチームを組んで競い合うので、チーム名でだいたい何処に住んでいる人かはわかる。

 この地区ではまだ3世代同居も珍しくはない。新しい家族も増えている。煩わしさもなくはないが、いろいろ話し込んでいくと、異業種の交流という意味でも、面白い話題や新しい知識が増えたりする。それぞれがそれぞれの場で苦労している話しを聞くと、また励まされたりもする。水神祭りでいただいた御幣を近くの畦に差したが、やはり豊作や家内安全を祈らざるを得なかった。

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2008年6月21日 (土)

本多利通

7日に本多利通を偲ぶ「卯の花忌」があった。この催しについては昨年も書いている。
今回は事前に「私の一編」ということで、本多利通の作品を挙げてもらっていた。じっくり作品に向き合ったのはこれが最初のような気がする。座談会では当初、みえのふみあきさんに詩のリアリズムについて少し語ってもらった。みえのさんは本多利通の詩を帰納的技法としてとらえて説明された。すべての作品が実体験に基づいて書かれているが、この経験主義から導かれる(帰納される)屈折した認識や思想に本多利通の神髄があるということである。今回、一編の作品としてもっとも多かったのが「蜻蛉」であった。

  蜻蛉 

 空のたかみにあるとき
 それは見えない
 それは夕焼けのなかで
 かなしみによってきらりと光るだけだ
 すきとおった羽根
 一本の釘に似た身をはこぶ
 純粋な思想

 羽根のさきから透明になって
 やがて全身空に消えてしまいたいけれど
 消えることができない
 一本のおもたい棒
 それは壁にすがっている
 木の葉のうえに墜落している

 それよりも
 ふたつながらの巨大な鏡の球体 それは
 見ることにつかれて
 花片のようなまぶたにいたわられることもない
 いたましい眼球であるか

      詩集『形象と沈黙』より

見ること(経験)から認識が始まり、認識から導き出される独自の思想が窺われる。リアリズムは写実主義とか経験主義、現実主義とか訳されるが、今ここにある(存在していう事物)、生きている意味が問われなければ、それは単なる身辺雑記に落ちかねない。しかし見ることがいかに「いたましい」体験であるか、純粋であろうとすればするほど、生活や労働、家族など、日常そのものなかに苦悶や慚愧が絶えないだろう。でも彼はそれらの体験を流行の思想や概念で捉えようとはしなかった。「純粋とは拒絶すること」「詩は死の予行演習」と寡黙な詩人であっただけに、内に秘めたものには他を圧倒する熱情を感じたものだ。

他の作品では「ハンマー投げ」「もしも沈黙が」(『形象と沈黙』)、「田植」「火の枝」(詩集『火の枝』)が多かった。参加した人たちにはそれぞれに思いや想い出があり、発表当時の「白鯨」合評会の様子なども語られ(杉谷昭人さんも参加)、作品鑑賞の大きな参考になった。

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2008年6月 4日 (水)

穆佐小学校移転問題

 最近、地域の話題から遠ざかっている。というより子どもが小学校を卒業し、情報が入り難くなっていた。そこで少し気になっている穆佐小学校の移転問題について調べてみた。宮崎市役所のWebサイトに市議会の議事録が掲載されている。以下はその内容である。

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2008.03.04 平成20年第1回定例会(抜粋)

 長尾和子議員
 穆佐小学校の移転改築についてお伺いいたします。
六月議会では、昨年度実施した候補地比較調査の結果を踏まえ、関係機関や庁内関係部局とも協議を行い、建設地の選定を行ってきた、その結果、市としては、市穆佐出張所やJA宮崎中央穆佐支店のある高台へ移転改築を行うことが適当であると判断したということでした。また、今年度の計画としては、当該地の測量調査やJAに関する補償調査を実施したい、改築に当たっては、地域住民の皆さんと十分協議をしながら、新市建設計画事業として取り組んでいきたいと答弁をされております。その後、七カ月以上が経過いたしましたが、現時点においてJA宮崎中央穆佐支店所有地の測量調査はどうなっているのか。

 二点目に、測量が終わっているのであれば、補償についてはどのように話が進んでいるのでしょうか。また、平成二十年度の当初予算概要の中に、穆佐小学校の移転改築事業として1938万円が組まれていますが、この事業の内容についてお伺いいたします。

 井上雄二教育局長
 御案内のとおり、市穆佐出張所やJA宮崎中央穆佐支店があります高台への移転改築を行うことが適当であるというふうに判断しているところでございます。今年度は、これまでに移転候補地の測量調査やJA宮崎中央に関する補償調査等を完了し、現在、JA宮崎中央と補償等に係る協議を行っているところでございます。

 次に、来年度の取り組みについてでございますが、来年度は移転改築の具現化に向け基本設計及び実施設計に着手したいと考えております。今後とも、改築に当たりましては、安全で快適な学校となりますよう設計過程の中で十分検討しながら、新市建設計画事業として進めてまいりたいと考えております。

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Img_3448  結局、穆佐団地センターの敷地内に移転改築するということのようだ。充分な広さが確保されるかどうか心配だが、さまざまな検討の上、そこに決まったのだろう。今年度中に基本、実施設計の計画とあるので、完成は二年後ぐらいになるのだろうか。現在の穆佐小学校は老朽化している上に、毎年の大雨時の浸水や大地震のことを想定すれば、早めの対応が望まれる。ただ、団地センターのグランドや体育館はスポーツ少年団の練習場として連日利用されているので、ぜひその保障もしてもらいたい。

 解体後の穆佐小学校の跡地利用はどうなるのだろう。近くには高木兼寛の生家跡(穆園広場)や中世山城として貴重な穆佐城もある。故人になったが、穆佐を題材にした作家、阿万鯱人や知られざる歌人、高野春義もいる。サンスポーツランドも隣接し、それらを総合的に組み立てれば、面白い文化ゾーン(公園)ができる。

 身近な歴史、文化、医療、芸術、スポーツこそ大事だ。それらを関連づけながら学べる環境は、子どもたちにとっても大人にとっても有意義な場所になるだろう。かつて穆佐地区に居住した者にとっても、穆佐小学校は地域の結節点として歩んできた。穆佐城の地形を活かし、文化的な豊かさを感じさせるゾーン造りはできないだろうか。

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