本多利通
7日に本多利通を偲ぶ「卯の花忌」があった。この催しについては昨年も書いている。
今回は事前に「私の一編」ということで、本多利通の作品を挙げてもらっていた。じっくり作品に向き合ったのはこれが最初のような気がする。座談会では当初、みえのふみあきさんに詩のリアリズムについて少し語ってもらった。みえのさんは本多利通の詩を帰納的技法としてとらえて説明された。すべての作品が実体験に基づいて書かれているが、この経験主義から導かれる(帰納される)屈折した認識や思想に本多利通の神髄があるということである。今回、一編の作品としてもっとも多かったのが「蜻蛉」であった。
蜻蛉
空のたかみにあるとき
それは見えない
それは夕焼けのなかで
かなしみによってきらりと光るだけだ
すきとおった羽根
一本の釘に似た身をはこぶ
純粋な思想
羽根のさきから透明になって
やがて全身空に消えてしまいたいけれど
消えることができない
一本のおもたい棒
それは壁にすがっている
木の葉のうえに墜落している
それよりも
ふたつながらの巨大な鏡の球体 それは
見ることにつかれて
花片のようなまぶたにいたわられることもない
いたましい眼球であるか
詩集『形象と沈黙』より
見ること(経験)から認識が始まり、認識から導き出される独自の思想が窺われる。リアリズムは写実主義とか経験主義、現実主義とか訳されるが、今ここにある(存在していう事物)、生きている意味が問われなければ、それは単なる身辺雑記に落ちかねない。しかし見ることがいかに「いたましい」体験であるか、純粋であろうとすればするほど、生活や労働、家族など、日常そのものなかに苦悶や慚愧が絶えないだろう。でも彼はそれらの体験を流行の思想や概念で捉えようとはしなかった。「純粋とは拒絶すること」「詩は死の予行演習」と寡黙な詩人であっただけに、内に秘めたものには他を圧倒する熱情を感じたものだ。
他の作品では「ハンマー投げ」「もしも沈黙が」(『形象と沈黙』)、「田植」「火の枝」(詩集『火の枝』)が多かった。参加した人たちにはそれぞれに思いや想い出があり、発表当時の「白鯨」合評会の様子なども語られ(杉谷昭人さんも参加)、作品鑑賞の大きな参考になった。
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