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2008年7月19日 (土)

カラダ言葉

Img_3487  今日は高岡町のサン・スポーツランドで娘のテニスの練習試合があった。今日も猛暑であった。夏空には積乱雲が発達したが、生暖かい風が吹いただけで一滴の雨も降らなかった。観る方も、とにかく水分補給を切らさないようにして試合を観戦した。

 観客席ではスポーツにおける腰の使い方が話題に上がった。とにかく腰を入れる、腰を使って回転する。その大事さが父親同士で飛び交っていた。そのことで想い出した。齋藤孝の本に「身体感覚を取り戻す-腰・ハラ文化の再生」というのがあった。要するに次のようなことである。(書評より)

 日本語には「練る」「磨く」「研ぐ」「締める」「絞る」「背負う」といった動詞が身体の訓練に結びついている。「心身を磨く」といった具合である。「磨く」という言葉自体は決して身体に便われる言葉ではないが、それが身体と結びついているところに日本の「カラダ言葉」の独自性があった。

 「身体感覚を取り戻す」は、日本人の身体感覚の失われつつあるものを、いま、取り戻すべきだという主張である。日本人の身体感覚とは「腰・ハラ文化」。腰が入っていることによって呼吸が安定し、その呼吸の深さがハラをつくる。ハラは人間の行動の原理、指針であり、人間の生き方の基盤である。

 現代の日本を襲うさまざまな問題の根底には、こうした伝統的な身体の喪失があるという。それは腰肚文化、すなわち「腰を据え」「肚を決める」ことでからだの中心感覚を保つ文化の喪失である。日本文化は精神主義的だと言われるが、実はその基盤に身体技術を持っていた。体の構え、呼吸の深さが重要であり、その心身一如のありようが人々に内側から自信と尊厳を与えていた。

 そこでは身体技法に基づく言葉が生きていた。考えを「練る」、人間を「磨く」、気を「引き締める」、未来を「背負う」……。しかし、練ったり、背負ったりという身体技法が失われつつある現在、そうした息の長い人間的プロセスもまた失われているのではないのか。それがすぐに「キレ」てしまう子供や、他人の息づかいを感じ取れぬ孤独な存在をもたらしているのではないのか。

 というような主張である。とにかくかつてはカラダ言葉がココロ言葉を支えていた。身体の所作や型が長い歴史のなかで形作られてきた。まず型から身体に覚えさせる。それが生きることの意味であった。だとしたら、そこにリアリズムの原点を置く想いにとらわれる。写実も現実も、身体で感じることが重要なのだ。短詩型における定型文学もカラダ言葉(リズム)から生み出されたものであったかもしれない。

 スポーツにとって素振りは基本である。その時、腰を中心に据えることはいうまでもない。そして呼吸法とともに声を出すこと。そうすると身体のなかの何かが動き始めるのである。腰の入ったフォームは美しさを生む。無理、無駄がない。型の文化は生きているのだ。

 今日は観てる方もいっぱい汗をかいた。誰に命令されるのでもなく、身体はちゃんと体温調節もしているのである。頭(脳)ではなく、腰、腹、肝に人類(身体)の歴史が詰まっている。身体にはまだ解明されない不思議な力が備わっているようだ。

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2008年7月13日 (日)

ちはやぶる

Img_3486  今日も一日、娘のテニス練習につきあわされた。宮崎市の天神山公園テニスコートで、県大会出場校5校が集まり、総当たり戦での練習試合であった。テントの準備から弁当の手配まで、保護者会がお手伝いをする。試合を観戦しながら、上位校の練習態度や指導者の姿勢、ジュニア時代の成績や高校への進学など、いろんな情報や感想が飛び交う。こんな暇ないのにと思うが、これが部活動生をもった親の務めなのだろう。

 今日も試合を観ながら考えた。スポーツはスピードが命である。早いボールにはやはり手が出せない。ネットすれすれのライナー性ボールがコーナーをついてくれば、それに追いついて打ち返すのは容易ではない。それだけラリーの応酬には見応えがある。プロのプレーヤーになると、観客は玉を追いながら、目が回るということにもなりかねない。速さは人間の感覚を狂わすのだ。

 魔球というものがある。一瞬、目の前からボールの形が消える。瞬間移動するくらいの速さは人間の認知を超えるものであろう。しかしその認知を越える速度の存在を人間は本能的に察知していたのではないか。でもなぜ、速さを競い合うのだろう。速さに対する憧れとは何なのだろう。どうもそれは人間を超越する力への接近なのかもしれない。

 これも鎌田東二の受け売りだが、「ちはやぶるとは神にかかる枕詞で、ち(霊、血、風、道)+はや(速)+ぶる(振る)、つまり霊から物質までもつらぬいている根源的な生命力が、すさまじいスピードでスイングし、スピンするさま」であるという。一種の神懸かり状態がちはやぶるなのだという。

 神秘体験、臨死体験にスピード感はつきものだといわれる。エクスタシーもスピード感と切り離せない。スポーツの恍惚感とはまさにスピードの爽快感なのかもしれない。先週、修学旅行から帰ってきた娘は遊園地で初めて絶叫マシーンに乗ったという。「怖かったけど、てげ、面白かった。気分がよかった」といっていた。人間の身体には、ここにも認知を越えた、わけのわからない異物が潜んでいる。

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2008年7月 6日 (日)

身体能力

Img_3465  中学生の娘は部活動で女子テニスをやっている。今日は県大会前の練習試合ということで日向市まで送迎してきた。梅雨明けとなった夏空で熱中症を心配する気候であったが、幸い木陰もあり、テントも準備して、水分補給に努めさせながら試合を観戦した。

 試合を観戦していて不思議に思うのは、身体が動くメカニズムは一体どうなっているのだろうということだ。サーブ、レシーブなど、静から動に変わる瞬間はボールの飛んでくる方向や種類(カーブやドライブなど)をある程度予測することができる。そのため、事前に身体の動かし方を意識することができる。身体を制御したり、態勢を整えたりすることができる。

 しかし、一旦ボールが飛び交い始めると、特にスピードが早いと、意識して予測などしている暇はない。身体が反射的に動き始める。あるいはその動きについて行けずただ呆然と突っ立て居る場合もあるが、目の前にボールが飛んでくると無意識にラケットを動かしている。

 運動神経のメカニズムについて詳しく調べたことはないが、イチローなどのバットコントロールを見ていると、明らかに脳から意識的に命令が出ているのではなく、身体が自然に動いていることがわかる。反射神経というやつだろうか。もちろんそうなるまでに繰り返し繰り返し練習を積み、身体にたたき込ませる、あるいは覚えさせる訓練をしているのだろうが、どうも別の指揮命令系統があるような気がする。

 これは普段の生活のなかでもあり得る。私たちはなんでも意識して行動しているように見えて、実はその意識の分野といういのはホンの氷山の一角かもしれないのだ。こころとからだを二分するとらえ方があるが、明治近代以降、私たちはあまりにもこころの意識化を重視してきた。そして近代的自我というやつに悩まされてきた。うつやノイローゼ、自殺など、精神的な病も、実はこころ偏重の考え方も影響しているのではないか。

 身体には意識されない別なメカニズムが働いているということをもっと重視する必要がある。東洋的な身体論では「気」の流れを大事にする。それは身体のなかに流れている別な何かである。意識化された私とは別な指揮命令系統が私の身体のなかに存在する。自分であって自分ではない別な他者が私のなかにいることになる。それは一体何者だろう。運動神経や反射神経で身体が動くのは、私ではなく、誰かが命令しているのだ。そしてそいつは私を突き抜けて、あるいは宇宙と交信しているのかもしれない。身は自然に任せればいい。

 ひ、ふ、み、よの三は身であり、実、水、海、霊(魂)につながっているといわれる。それは音波を通して交信する。だから耳(みみ)は、身身、実実からきているという(鎌田東二)。音を通して不可視の存在を意識する。生命の根源にはどうも別な何者かが存在するらしい。

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