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2008年7月 6日 (日)

身体能力

Img_3465  中学生の娘は部活動で女子テニスをやっている。今日は県大会前の練習試合ということで日向市まで送迎してきた。梅雨明けとなった夏空で熱中症を心配する気候であったが、幸い木陰もあり、テントも準備して、水分補給に努めさせながら試合を観戦した。

 試合を観戦していて不思議に思うのは、身体が動くメカニズムは一体どうなっているのだろうということだ。サーブ、レシーブなど、静から動に変わる瞬間はボールの飛んでくる方向や種類(カーブやドライブなど)をある程度予測することができる。そのため、事前に身体の動かし方を意識することができる。身体を制御したり、態勢を整えたりすることができる。

 しかし、一旦ボールが飛び交い始めると、特にスピードが早いと、意識して予測などしている暇はない。身体が反射的に動き始める。あるいはその動きについて行けずただ呆然と突っ立て居る場合もあるが、目の前にボールが飛んでくると無意識にラケットを動かしている。

 運動神経のメカニズムについて詳しく調べたことはないが、イチローなどのバットコントロールを見ていると、明らかに脳から意識的に命令が出ているのではなく、身体が自然に動いていることがわかる。反射神経というやつだろうか。もちろんそうなるまでに繰り返し繰り返し練習を積み、身体にたたき込ませる、あるいは覚えさせる訓練をしているのだろうが、どうも別の指揮命令系統があるような気がする。

 これは普段の生活のなかでもあり得る。私たちはなんでも意識して行動しているように見えて、実はその意識の分野といういのはホンの氷山の一角かもしれないのだ。こころとからだを二分するとらえ方があるが、明治近代以降、私たちはあまりにもこころの意識化を重視してきた。そして近代的自我というやつに悩まされてきた。うつやノイローゼ、自殺など、精神的な病も、実はこころ偏重の考え方も影響しているのではないか。

 身体には意識されない別なメカニズムが働いているということをもっと重視する必要がある。東洋的な身体論では「気」の流れを大事にする。それは身体のなかに流れている別な何かである。意識化された私とは別な指揮命令系統が私の身体のなかに存在する。自分であって自分ではない別な他者が私のなかにいることになる。それは一体何者だろう。運動神経や反射神経で身体が動くのは、私ではなく、誰かが命令しているのだ。そしてそいつは私を突き抜けて、あるいは宇宙と交信しているのかもしれない。身は自然に任せればいい。

 ひ、ふ、み、よの三は身であり、実、水、海、霊(魂)につながっているといわれる。それは音波を通して交信する。だから耳(みみ)は、身身、実実からきているという(鎌田東二)。音を通して不可視の存在を意識する。生命の根源にはどうも別な何者かが存在するらしい。

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