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2008年12月31日 (水)

ゆく旅

いよいよ大晦日となった。
身辺の整理をしながら、ゆく年くる年に想いを馳せる。
年末に岡山から出されている詩誌「ネビューラ」(代表、壷阪輝代)が届いた。そのなかの一編「ゆく旅」(日笠芙美子)が印象に残った。

ゆく旅

稲の切り株のうえに
冬の陽が落ちている
じっとたたずんでいる一羽の白鷺の
背中のあたりから日暮れて
ぽつんと明りが灯る家がある

いくつもの夜を越えて
今夜はたどり着く戸口

暖まってゆきなさい
父が蕎麦をうっている
母がテーブルを拭いている
ふたりとも楽しそうに
蕎麦をすすめる

ああ
ゆであがった蕎麦であふれてしまう
止まり木のようなテーブルで
ひととき 声のない会話をしている
若い父と母と
年月を重ねた娘と

ギイーギイー
鳥の声が夜を渡って行く
永遠のような一瞬
やさしくあたたかいものが
喉元を通り過ぎてゆく
たぶん現(うつつ)も一瞬なのだろう

白鷺たちのねぐらだった鉄塔で
木枯らしが羽音をたてている
夜をゆくものたちが聞いている

生きるということ、歳を重ねるということ、日々の暮らしを過ごすということ、そんなことを想起させる。そのなかでふと想い出す父母の記憶。そのやさしさあたたかさに日々の孤独や苦渋が救われる思いがする。ただその人生も一瞬なのだという死生観が胸を打つ。決して厭世感などではない。白鷺は作者自身かもしれないし、今世紀を生きる人々(人類)かもしれない。しかしそれを見つめている「夜をゆくもの」は日笠さん自身であることは疑いない。最近の日笠さんはますます充実している。来年また、どんな作品にめぐりあうか楽しみである。

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2008年12月29日 (月)

年の暮に

今年もあと残すところ3日となった。振り返って今年もいろいろ刺激的な出会いがあった。思いつくまま記しておきたい。

ひとつは私にとって南島志向について考えさせられる年となった。中村地平生誕100年ということでさまざまなイベントが開催された。マスコミ等による報道特集や地元実行委員会の記念行事、さらに日本社会文学会秋季宮崎大会での問題提起など、興味深く読みかつ聞かせてもらった。また、柳田国男宮崎来訪100年ということでも特集やイベントが開催されており、たまたま「海南小記」を中心に柳田の紀行文についてまとめていた時期とも重なって、南方あるいは南島志向について考えさせられた。

中村地平の南方文学については、日本社会文学会での研究報告が刺激的だった。特に台湾東呉大学の阮文雅女史による「台湾から中村地平を読み解くー重層化された南方」は、地平の小説に限らず南方を取り扱った日本文学を分析し、その性格を整理したものであった。これまで国内では植民地主義(侵略戦争)との関連でとらえられてきた地平の南方文学を反近代、地方主義からとらえ直しており、その可能性を開くものとして注目した。また別な報告に対する意見のなかでマジカル・リアリズムという言葉も出された。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」などに通底する反ヨーロッパ主義の概念に含まれるのではないかという意見であった。現地主義あるいは地方主義と読み替えてよいかもしれないが、そこには当然、西欧近代科学では割り切れない事象や出来事が取り上げられる。気候風土から生活習慣、信仰まで、生存の可能性を問うものであるような気がした。

柳田国男が最晩年にまとめた「海上の道」は彼の代表作といわれているが、この日本文化の伝播経路を追究した理論は今日ではほとんど論破されているといってよい。島崎藤村作の「椰子の実」の元になった柳田の体験だが、そこから、この構想が生じたとされている。しかし、他の柳田の著作に比べるとどうしても実証主義が希薄なのである。何か無理に結論をこじつけたようなところが感じられる。それこそ南方志向の熱にうかされたような印象を受ける。伊良湖岬での若い頃の感情がそのまま投影されているように思われた。母なる原郷を南方に探ったといったら言い過ぎだろうか。今後の私のテーマになりそうな課題である。

柳田の南方志向を探るなかで、美術史家の岡谷公二の著作を何冊か読んだ。岡谷も自らの南方志向を隠していないが、ミシェル・リレスや土方久功、ゴーギャンなど南方に憑かれた者たちを追究している。マジカル・リアリズムの根底には失われた世界に対する郷愁もあるような気がする。それが文学や芸術の可能性を開くものとしてどのような展開があるのか皆目予想はつかない。

11月に初めてチェーホフの劇を観た。演劇集団「地点」による四大戯曲の連続上演の一環であったが、そのなかの「ワーニャ伯父さん」がたまたま宮崎で上演された。観客は100名ほどであったが、小ホールでまじかに観ることができた。チェーホフの作品が劇でどのように演じられるのか、文庫本で読んだ時の印象とどう違うかが楽しみであった。最も印象的であったのはソーニャのとらえ方であった。最後の場面でワーニャ伯父さんにやさしく語りかけるシーンがあるが、寝転んだワーニャ伯父さんの背中を足蹴にしながら、「生きていきましょうよ」と語りかけるのである。これにはびっくりした。もちろん神西清訳にはそんな風には描かれていない。チェーホフ劇の解釈の仕方であろうが、シニカルとユーモアというチェーホフらしさを強調するためにそのような演出にしたのかもしれない。しかし、私には新鮮であった。劇の始まりは靴音、終わりは拍子木の音であったが、やはりチェーホフ劇における音の役割というものを改めて考えさせられた。

12月に入って近くのギャラリー「鬼楽」で、横瀬勝彦・田村将太「木の形展」があった。横瀬は63年生まれのベテランである。田村は私は初めて知ったが82年生まれの新鋭である。横瀬は小林生まれ、田村は日之影生まれである。横瀬の立体は極めて理知的である。というより現代人の緊張や不安を表現しながら、寓話性を感じさせてくれる。タイトルも詩的であり、作品の前に立つといろいろ考えさせられる。しかし深刻さだけではなく、ユーモアや遊びの感覚も取り入れ、見ていて飽きさせない。今回展示はなかったが私は箱シリーズの巨大なトランク(題名を忘れた)が好きである。旅行鞄、パンドラの箱、のぞき見趣味などいろいろな空想を楽しむことができる。

田村の作品は木肌や木目を生かして樹木のぬくもりを感じさせてくれる。やわらかいカーブに直線を交えながら、木の存在感や造形の美しさを出そうとしている。やわらかさにはエロス的な印象も与え、生命の瑞々しさを感じさせてくれる。木の気というものがあるように思うが、その見えない気を造形によってとらえたいという願望も窺えた。ただ、若干装飾的な要素もあり、様々な冒険、実験の過程にあるとは思うが、今後の展開に興味をそそられた。

年末になって新詩集が届いた。南邦和「神話」、本多寿「草霊」、藤子迅司良「みつぎ倉庫から」など、その詩作態度に刺激を受ける。志垣澄幸歌集「日向」にも心打たれた。詩誌もたくさん届けられるが、全部を読みとおす力はない。何事も整理のつかないまま年を越そうとしている。

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