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2009年1月12日 (月)

問い続けること

先週の土曜日、宮崎県立図書館でNPOスキルアップ講座が行われていた。「これからの市民活動の行方」と題して、フリージャーナリストの播磨靖夫氏の話であった。氏は障害者支援「たんぽぽの家」の理事長でもある。これがなかなか面白かった。

レジメに「出口の見えない閉塞状況に生きる私たちに必要なのは、問いのすみやかな解決ではなく、問いの生成に価値をみいだすことではないか。先に先にという思考が強まる時代において、答えを出すのを急がず、問いを最後まで引き受ける生き方を大切にしたい」とあった。これにまず引き込まれた。

話は秋葉原に象徴される「誰でもよかった」無差別殺人事件に始まり、人と人、人と自然、人と社会、人と大いなるものが分断される虚無の時代にあって、弱い者がいかに生き延びるかというテーマで展開された。「生きている」「どうなる」から「生きていく」「どうする」への転換。能動的、主体的選択の幅を広げることが大切なのだ。「できないことを求めるのではなく、できることをやれる環境づくり」が重要だという。そのキーワードは互酬文化(お互いさま)の復権にあるとした。それはモンスターペアレントなどのクレーマー(文句)社会を変革することにもつながっていく。

確かに日本には贈答文化がある。そのいき過ぎが官民での業者癒着や教職員採用に関わっての不正を生み批判されたが、かつて隣近所同士あるいは縁戚同士で互酬のシステムが生きていた。「もったいない」と同様、「お互いさま」という精神は金を介在させない関係で弱いものどうしが生き抜く知恵であった。その支え合い文化をもう一度見直すべきだという。

弱さとともに生きることは、その互酬精神を活かしながら、新たなケアを創出していくことにある。介護の問題は確かに多い。ただ一方でその介護を楽しくやれたという例も報告されている。そこに共通しているのは生活の保障と相談の関係がうまくいっていることにあった。支え合いが充実していたのだ。その発見は実際に介護にあたった人たちの声から導きだされている。それは市民的専門性なのだという。研究者や学者からは導き出されない横断的な提案がたくさん生まれている。

ケアリング・ソサエティ(共生社会)は支え合うコミュニティづくりである。それは競争ではなく共創を生み出す社会である。他者への配慮、気遣い、声かけなどがその文化を支えている。そして共生社会を発展させるには異業種や障害者、社会的弱者、あるいは異民族など異なる他者との交流が大事だという。そこから新たな発見や創造(アート)が生まれてくる。

市場原理主義や成果主義に振り回されてきた若者たちが草食系男子となってサイレントマジョリティになりつつあり、女性たちがアラフォーに満たされず東アジアや窮乏に目を向け始めている(朝日新聞連載「感情模索」より)。そのことを想起しながら話を聞いた。なかなか示唆に富む話であった。何より人間の尊厳が顧みられない社会でどう生き伸びるのかということ、そして新たに生まれる問いに価値を見出すこと、その持続性が生き方をも左右していくのだろう。

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