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2009年2月14日 (土)

冨岡夜詩彦

冨岡務(とみおかつとむ)さんが、今月2日、悪性リンパ腫のため78歳で死去された。えびの市議6期、市助役2期の後、2007年12月まで副市長を務められた人である。私は面識はなかったが、本多企画から随筆集「風のことば」(1997年)、句集「風の記憶」(2002年)を上梓されていることを本多寿さんからうかがった。たまたま住まいが私の実家の川向うにあるということから興味を抱いた。

ネットで調べてみると次のようなことがわかった。まず、同市出身の映画監督、黒木和雄さんと同級生だったということ。学徒動員で、軍需工場で働かされ、空襲で同級生10人を亡くしたという。その体験が戦後の冨岡さんの生き方の原点になっているのかもしれない。

市議会議員時代、13年間休まず自費で市議会の報告を発行し続けている。原稿は手書き、自宅のコピー機で印刷し出していたという。学校の校舎改築、体育館建設などについては、地区の住民に平面図、工期、工事額、請負業者などをコピーして配布していた。誠実なお人柄がわかる。

また、議会での手厳しい質問には定評があったという。市長与党の保守系議員にはめずらしく、数字をあげ、データを示して具体的な質問を行っている。そこまで執行部を追及しなくてもという声もあったらしいが、「市民の代表として議会に出ている以上、筋の通らないことは許せません。執行部ももっとしっかり勉強してほしい」との強い思いがあったのだろう。

当然ながら、冨岡さんの自宅の書斎には地方自治・地方財政の専門書が山積みされていた。図書館を建てるにしても「他の自治体が建てたから、うちの町も立派なのを建てよう、というのではいけない。実際、どれだけの予算がかかり、どのくらいの人が利用しているのか、データに基づいて計画するのでなければなりません」と執行部追随の地方議員や横ならび意識の強い自治体幹部を叱咤激励していた。冨岡さんの信条は「運命をかけて自分の言葉を語る」ということであったという。

俳人としては、冨岡夜詩彦のペンネームで、「沖」「椎の実」「円」同人であった。俳人協会会員、県俳句協会理事も務められている。そのことは地元ではあまり知られていないのではないか。その作品を読ませていただいて驚いた。政治家としての生き方と俳人としての生き方に矛盾がない。世俗的な名声や利欲に背を向け、ひたすら誠実な生き方を追究している。冨岡さんは、俳人、野見山朱鳥の「生命諷詠」に共鳴し師事している。印象に残った作品はたくさんあるが、少しだけ紹介してみる。


地を出でし蟻に記憶の幹立てリ

じっと地面を見つめている冨岡さんがいる。出てきた蟻に戦争体験を思い出したのかもしれない。その記憶を胸に刻み、戦後を強く生きようとする姿勢が伝わってくる。


春雨濃しいのちあるものなきものに

春雨が降っている。何か深い思いが胸中をめぐっていたのであろう。その雨が森羅万象に降り注いでいる。それは人や樹木、植物のみでなく、無機質な農機具や制度にまで及んでいく。


蛍火となれざる虫も闇飛べり

人が愛(め)でる蛍だけでなく、闇夜に浮かび上がらない虫にまで、その温かい愛情を注いでいる。それは社会的弱者や僻村の老齢者かもしれない。その想像力に驚かされる。


皇居にも裏径があり夏薊

終戦記念日かなにかに議員として皇居を訪れる機会があったのだろう。晴れやかな舞台よりも裏径に咲く可憐な野花に目を奪われている。「裏径があり」は意味深である。


天に辛夷地にかなしみの柩置く

春先に咲く辛夷の白い花が天に輝くなか、親しい人の葬儀があったのだろう。希望と失意、明と暗の対比が、辛夷と柩に象徴されて見事である。万物流転の生命感を感じる。

句集「風の記憶」の2部に書かれた評論「風の源流」(野見山朱鳥論ノート、「生命諷詠」という時代)はすぐれた句論になっている。俳句だけでなく、芸術一般、生き方そのものを問う論考をいっていいであろう。

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