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2009年5月30日 (土)

泣き伏したPC

一日何時間パソコンと付き合っているだろう。
職場でも自宅でも、資料のデータ化と文章作成、インターネットやメールなど、恐らく起きている時間の半分はキーボードを操っている。特に職場ではノートパソコンを使っているので、開けたり閉めたりは日常的な行動になっている。そんななかで次の詩に出合った。上手宰さんの詩である。

閉じられないノートPC

ノートパソコンを閉じると
今まで私を見つめていた画面が
わっと泣き伏して
机に顔を埋めてしまったように感じる

どこかで
カチッと音がした

閉じられたのはパソコンではなくて
私の心だったのか
内側から自分に鍵をかけて
これから出かける

今日はたくさんの人に会い
とてもさびしい想いをすることはわかっている
そのぶん
やさしい笑顔であいさつを交わすだろう

電車の中で急に若い友人の話しを思い出した
何かの衝撃でノートパソコンのふたがしまらなくなったという
泣き伏そうとしても
隙間ができてしまって
腕に顔を埋められないのだという

いつまでたっても
カチっという音が聞こえない
不細工なマシンの横顔を思った

力ずくでふたを閉めてしまうのも一つの手だね
何かが折れた音がして
突っ伏したまま二度と顔を上げない
壊れたマシンがそこにある
永遠にうつむいて

この作品を読んで以来、ノートPCが感情を持った機械に思えてきた。一所懸命、働いているのに、感謝の言葉もない。真剣に付き合っているのに、私のこころをわかってくれない。そんなノートPCのつぶやきが聞こえてきそうである。

「わっと泣き伏して/机に顔を埋めてしまった」ととらえる上手さんの感性がすばらしい。恐らく、常日頃から人に対して、痛みややさしさを共有する心根をお持ちなのだろう。

この作品のキーワードは「内側から自分に鍵をかけて」の箇所だろう。だから最終行の「永遠にうつむいて」につながっている。「たくさんの人に会い/とてもさびしい想いをする」のも、自分の心を閉ざしているからである。その感慨を壊れて閉じないノートPCに託している。

ディスプレイにはさまざまな情報が流れる。さまざまな表情が現われる。もちろん見たくないものは閉じればよい。しかしそこに対話は成立しない。情感の共有もできない。そのことを上手さんは「わっと泣き伏して/机に顔を埋めてしまった」と表現したのではないか。

自らの心に鍵をかけて、素直さや誠実さを見失った現代人を、生身のコミュニケーションを疎かにしている現実を、ノートPCに象徴させて作品化している。実に心憎い、うまい表現である。

このほかにも「不具合」という作品もあって、PC漬けのわたしには身に沁みる発見であった。

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