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2009年7月26日 (日)

嵯峨信之の詩

嵯峨信之は都城市出身の詩人である。

私は、現代詩にそれほど慣れ親しんできたわけではないが、嵯峨さんの主宰する詩誌「詩学」には注目してきた。現代詩は難解だといわれながら、この「詩学」に掲載される作品はそれほどでもなく、新人投稿欄も充実しており、さらに詩の芥川賞といわれるH氏賞の作品や選考過程なども掲載され、手にとって読むことが多かった。嵯峨さんの死後、「詩学」はしばらくは続いていたが、なぜか面白くなくなり、やがて廃刊になった。

私が嵯峨信之の詩に注目したのは、晩年の詩集「小詩無辺」を目にしてからだったように記憶する。その時、嵯峨さんが都城出身と知ったように思う。すでに齢90は過ぎていた。にもかかわらず、その詩の瑞瑞しさにうっとりしてしまった。

嵯峨信之の詩に対する印象は言葉にし難い。しかし、「これが詩だ」としか言いようのないものなのだ。そんな印象もあって、昨日のある文芸講座で嵯峨信之の詩を取り上げた。

詩集『愛と死の数え唄』から

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のように美しい
しかしその虹を地上にひきおろしてみると
それは一条の縄でしかない

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地に海を掻きまぜてこよう

その日あなたは多くのことを話した
だが多くの言葉のなかで一語だけが絃のように高らかに鳴った
余韻がいまもつづいている
ぼくは川上へのぼっていく白い帆をあきずに眺めながら
穏やかにすぎていく一日のなかに余韻がいつまでもふるえるのを感じる
なにかが自然に傾斜し
なにかが自然にもとに還る
跡かたもないことが行われたようにしずかな砂地がつづく
しかしよく見ると砂の上に
かすかに翼の触れた跡が残っている
運命がまたしてもぼくのなかを通りぬけて行ったのだろう

なぜこんなに心せかれてくるのだろう
ぼくの立っている砂地がもう残り少ない
くりかえしくりかえし寄せていた夕汐が滑らかに沖へひろがっていて
他のひとのしづけさに似た穏やかな海の上
ふと対岸からの鐘の音がきこえてくる
いくつか鳴りつづいて遠くで鳴りやんだ
すると空と海とが遥かに去りゆくものを去らせている
どこかにかくれている一つの約束が見える
大きな鳥が一羽
砂州の上をすれすれに飛んだ
一つの源へ力となるためにすべてが集まっているのだろう
ぼくは手放すことができないものをじっと摑みながら
なにかに深く堪えている

ぼくはまた心のなかの霧にかくれてしまう
なにかの手がぼくをつよく追いもとめる
眼に見えぬ風のざわめきがいつまでもぼくを不安にする
心の遠い沖が荒れはじめたのだろう
ぼくは小さな村はずれへ駈けだしたくなる
碇を下ろそうと大きな船が泊っている
一羽の鳥もいない港
なぜか岬の上でいつまでもじっと動かない雲
ひろい村々の夕ぐれの空のわななきが
いつも丘の上の寺の一つの鐘のなかにあるように
ぼくのなかにある不安の小さな塊り
なにも刻んでないその石の上に
薄い翅をふるわせながら
蜻蛉はとまろうとして離れている
                ――――折生迫港

「聞きそびれた昨日の言葉」が忘れられずにいる。しかし「それは一条の縄でしかない」。何かそれは運命を左右する言葉であったのかもしれない。作者はそれにじっと堪えている。その言葉を「砂の上にかすかに翼の触れた跡」「一つの源へ力となるためにすべてが集まっている」ととらえる。生きて在ることの不安を自然の情景に託しながら、リリカルに表現している。

フランス詩に詳しかったこともあって、その手法は決して湿っぽくなく、レトリックの使い方が実にうまい。掲載作品は、初期の詩集『愛と死の数え唄』からとったが、そのタイトル通り、愛と死がテーマになっているが、もっと根源的なもののように感じる。

嵯峨さんの詩には、宮崎にちなんだ作品が多くある。宮崎旧居、都城旧居、高鍋町、関の尾の滝、大淀川河口、住吉海岸、赤江村などである。しかしそれらの作品は、直接的にその地名をうたったものではない。内容は極めて個人的な体験や思念に裏付けられており、ある面、普遍性を持っている。

嵯峨さんについては金丸桝一さんもいろいろ書いておられるが、ここでは同じフランス文学の研究者で詩人でもある吉田加南子氏の、嵯峨信之論を引用させていただく。

嵯峨さんの詩のことばは静かである。はるかなものがゆっくりと沈黙のなかをめぐっているように、嵯峨さんの詩のことばは、燃え立ちながら、燃えることによってことばというおのれからおのれを解き放って、無名に帰ろうとして、それぞれの回路をめぐっているように思われる。海で泳いでいる小さな魚のような、あるいは夜の海に映されてゆらめいている漁火のような、無名のものが無名のままにあることのゆっくりな静かさ。

けれどこの静かさのなかに、わたしは静かさを静かさとしてあらしめている、精神の強い緊張を、そしてこの緊張を支えている反抗、有限の命しか持たぬ者のその有限への反抗を感じずにはいられない。そして嵯峨さんの詩業が第二次世界大戦敗戦後にあらためて始められたことを思うとき、怒りとしか呼びえないものがどこかに働いているのを感ずる。(略)

何をもってしても慰めえないものを、どうして詩が慰めえよう。けれど、詩を通過してなおその先へと進んでゆく光を、そのみなもとへと遡ってゆこうとするとき、世界の始まり以前の始まりである泉の、静かな、けれどしみ通るようにひびく、澄んだ、新しい音が聞こえて来はしないだろうか。(詩および作品論は現代詩文庫『嵯峨信之詩集』思潮社刊より)

嵯峨信之は何度でも読み返してみたくなる詩人である。

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