想像力
「おとうさん、この詩、ぜ~んぜん、わかんな~い!」と、使っている教科書を持って、娘がやってきた。石垣りんの「挨拶」という詩である。よく知られた詩らしいが、私も初めてのように読んだ。
挨拶ー原爆の写真によせて
あ、
この焼けただれた顔は
一九四五年八月六日
その時広島にいた人
二五万の焼けただれのひとつ
すでに此の世にないもの
とはいえ
友よ
向き合った互いの顔を
も一度見直そう
戦火の後もとどめぬ
すこやかな今日の顔
すがすがしい朝の顔を
その顔の中に明日の表情をさがすとき
私はりつぜんとするのだ
地球が原爆を数百個所持して
生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに
あなたは美しいのか
しずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時一五分は
毎朝やってくる
一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く、私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。
娘がいうには、「これがなぜ挨拶なのか、最初の、あ、ってなに? 友って誰なのか、なぜ、すがすがしい朝の顔になるのか」など、結局、なにがいいたいのかよくわからないというのである。私は教師ではないので、この教材をどのように読み取らせ、考えさせるのかわからないが、最初に思ったのは「想像力」ということであった。副題に「原爆の写真によせて」とつけられているので、そこからすでに詩は始まっている。
恐らく、作者は被爆者の写真を見せられて、原爆のことを思い、亡くなったひとりの人間を思い浮かべたのであろう。「友よ」というよびかけは、身近な友人かもしれないし、世界中の、今、生きている私たちに対する呼びかけかもしれない。「向かい合った互いの顔」は、写真のなかの被爆者の顔にも読み取れるが、あとに「すこやかな今日の顔」や「すがすがしい朝の顔」と出てくるので、今、生きている、あるいは職場や学校で朝、出会った友の顔かもしれない。
「明日の表情をさがす」ということばに、とまどいを感じるが、ここでも想像力が試される。「地球が原爆を数百個所持して」いるという事実は、明日を単純には信じられない恐ろしさを伝える。だから「りつぜんとするのだ」。そのことを思う時、朝の顔も決して、安らかで、美しい状態におられるはずがないと作者は考えるのである。
「しずかに耳を澄ませ」からは、まさに想像の世界である。世界を、現実を、見渡せば、戦争の気配はいくらでも見出すことができる。そして原爆が落とされた八時一五分は毎日やってくるのである。それはまた繰り返されるかもしれない。そのことに作者は思い至っている。亡くなった被爆者も、その日もいつもと同じように朝起きて生活を始めようとしていたはずだ。それは、今、生きている私たちと何ら変わりはない。だからこそ、油断してはならないといっているのである。
「油断するな」ということは、「想像力を鍛えよ」ということと同義である。読者の想像力が試されているのである。詩はまさに想像力の世界である。この詩は特にそのことを考えさせられる。
実は、この詩に関して、随筆集「ユーモアの鎖国」にこんなことが書かれている。
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第二次世界大戦後、食糧も娯楽も乏しかった時期、文芸といった情緒面でも、菜園で芋やかぼちゃをつくるのと同じように自給自足が行われ、仲間うちに配る新聞の紙面を埋める詩は、自分たちで書かなければならなかった。
実際、私も勤め先の職員組合書記局に呼ばれ、明日は原爆投下された8月6日である。朝、皆が出勤してきて一列に並んだ出勤簿に銘々判を捺す、その台の真上にはる壁新聞に原爆投下の写真を出すから、写真に添える詩を今すぐここで書いてもらいたい。と言われ、営業時間中、一時間位で書かされたことがありました。
題名は、友だちに「オハヨウ」と呼びかけるかわりの詩、という意味で「挨拶」としました。あれはアメリカ側から、原爆被災者の写真を発表してもよろしい、と言われた年のことだったと思います。
はじめて目にする写真を手に、すぐに詩を書けという執行部の人も、頼まれた者も、非常な衝撃を受けていて、叩かれてネをあげるような思いで、私は求めに応えた。どういう方法でつくったという手順は何もなく、言えるとすれば、そうした音をあげるものを、ひとつの機会がたたいた、木琴だかドラムだか、とにかく両方がぶつかりあって発生した言葉、であった。それがその時の空気にどのように調和し得たか。
翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。
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このエッセーを読むと、この詩が職場の組合掲示板に書かれたものであり、現実に朝、同僚と顔を合わせていたことがわかる。だからこの詩のタイトルも、朝の「挨拶」なのだ。最終連「油断していた」ということばの持つ、悔恨と懺悔、そして未来への警告などいろいろと考えさせられる。
ところで、娘がどのように理解したか、自信はない。
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