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2009年9月23日 (水)

新聞時評

旧聞に属するが、地元新聞社主催で今月初めに新聞時評に関するシンポジウムが開かれた。「批評の言葉は届くか」というタイトルで、文芸、美術、音楽、演劇の分野で時評を担当している方がパネリストとして参加していた。問題とされたのは、作品と時評にコミュニケーションが成立しているか、ということであった。

パネリストの主張の多くは、この地での批評の受け入れ方が成熟しておらず、批評が成り立ちにくいというものであった。つまり作品批評が作家批判と受け止められやすく、新聞という情報媒体の特色から誰の目にふれやすいため、本音は出しにくいという。したがって、時評が単なる紹介と激励に終始せざるを得ない現実にあるという。また、作家の側からも何の反応もなく、コミュニケーションはないという。

率直なところ、これらの話を聞きながら、地元新聞での時評はあまり意味を見出せないと思った。時評であるから、ひと月に一回は原稿を作らなければならない。感動しなくても、県内で発表された作品を取り上げなければならない。勢い、単なる紹介記事になってしまうだろう。これでは意味はない。

批評も努めて自己表現の一分野である。読者に読ませる表現、考えさせる内容でなければならない。当然、批評者もその苦闘が問われてくる。自らの立場を明確にし、問題点を抽出し、常識や既成の概念を疑う視点を提示しなければ、創作の価値は失われる。むしろ、コミュニケートさせなければならないのは新聞読者である。批評者に自問自答がなければ、自己表現とはならない。批評者の内面が伝わってこなければ、取り上げられる作品も色あせてしまうだろう。

恐らく、新聞時評が面白くないのは、批評が自己表現になっていないからだ。単なる紹介であれば、社内の記者で事足れる。例え、そこに専門的な知識や解説が必要であっても、借り物であれば読ませる記事にはならない。真剣に作品に向き合えば、当然傷つく場面は出てくる。しかし、そうであってこそ、作品は表現が豊かになっていく。創作の「創」は傷つくことを前提にしているからだ。

批評は、地域限定や体面や名誉などとは無縁のところで行われるし、それらを越えるところに面白さは出てくると思われた。

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