神品サロン
ドイツ文学者の神品芳夫さん宅で開かれている詩の談話会「神品サロン」に参加してきた。以前より「神品サロン」のことは耳にしていたが、東京での集まりでもあり、錚々たるメンバーで羨ましいなとは思いながら、参加できることなど考えてもいなかった。
今回は、たまたま前田ちよ子さんのことを詩誌「禾」に書かせてもらって、同人であった水野るり子さんを招待するということで、外村京子氏より「カメちゃん、出てこない?」と私にも声がかかったのである。本多寿氏も急遽、都合をつけて参加することになった。
当日の参加は柴田三吉さんや上手宰さんなどの常連に、水野さんが絹川早苗さんや坂多瑩子さんをお連れになっていた。ホスト役の神品さん、外村さんに、宮崎から二人の参加でいつもより大勢になったようだ。私は当日の最終便の飛行機で帰ることにしていたので、実質3時間ほどしかお話できなかったが、前田ちよ子さんの作品の話から始まり、生前のご様子などを伺えることができたのは幸いであった。
以前このブログでも触れたように、前田さんの詩はとても刺激的である。その印象は参加された誰もが口にされていた。その前田さんの葛藤と苦悩、作品の特徴、そして死について話題は展開していった。前田さんが子どもさんを出産されたおりに言われたという「産んだら死ぬだけ」ということばや、神品先生がポツンと「人には生きる時間が決められている」と言われたことも印象に残った。
実はサロンの前日、森美術館で開催されていた「医学と芸術展」を鑑賞していた。肉体や精神、科学と芸術の融合についていろいろ考えさせられた。そのメインテーマに「メメントモリ(死を忘れることなかれ)」が掲げられていたのも記憶に新しかった。動物も昆虫も生きものとして死は避けられない。種の繁栄のために生き、そして死ぬ。その生態は人間とて変わりはない。そこにどのような美しさを見出すことができるのか。
「産んだら死ぬだけ」とはまさに昆虫や魚の世界と一緒である。それほどまでに情を排した世界を描かざるを得なかった前田さんの心境には、何か決定的な欠落感と同時に、それだけ人と人との交わりに対する渇望感が感じられる。しかし、これは決して前田さん独自の世界ではなく、人が生きる根源的な情感に触れているのではないかと思わされた。その詩は無機質な世界を描きながら、奥に豊かな情愛を感じさせるから不思議である。
ホスト役の神品先生に関しては、昨年暮に先生訳の『リルケ詩集』(土曜美術社出版販売)を頂いていた。そのお礼も差し上げないまま上京してしまって、開口一番そのことを申し上げた。リルケの影響を口にする詩人はこれまで何人もいた。しかし、私にはあまりピンとこなかった。日本語として、日本文として、あるいは考察の仕方について、これまでついていけなかったのである。
今回の『リルケ詩集』を読ませていただいて、よく知られた「秋」や「秋の日」の作品はこれまでの印象と随分異なる思いがした。作品の下欄に付けられた注釈も非常に参考になった。何より解説で書かれたリルケの生涯と作品の位置づけや近代詩の原点とのとらえ方に、私のなかで改めてリルケを見直したのは事実である。
秋
木々の葉が落ちる、遠くから落ちてくるように、
空のかなたで庭の木立が枯れているのか、
木々の葉は、拒む身ぶりで落ちてくる。
そして夜には重い大地も
ほかの星たちから離れて、孤独のなかへ落ちてゆく。
わたしたち、みんな落ちる。この手も落ちる。※
ほかのひとたちを見てごらん。落下はすべての人にある。
けれども、この落下を限りなくやさしく
両の手で支えてくれる存在がある。
※朗読者は片方の手をかざす。
(神品芳夫訳)
また以前、『自然詩の系譜』(神品芳夫編著、みすず書房)のなかで喚起された問い-自然や風景が創作に与える意味-は、私のなかでずっと燻り続けていた。。日向の地における自然と詩作品の関係や、そこに住む人々の自然観や人生観についても、深く考えさせられるきっかけになっていたからである。
そのテーマはデラシネという現代にあって何かにつながろうとする時、喩として浮上してくる自然の風景、大いなるものの存在、太古よりの連鎖、生命の根源としての宇宙にまで広がっていく。そんなことも含めて、詩に関われる喜びを今回の「神品サロン」では味あわせてもらうことができた。当日、お会いした方々からも、何かとても温かいものをいただいたような心持で帰路についた。お京姉御ありがとう。
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