柳田國男と島崎藤村
柳田國男(旧姓松岡)は若い頃、島崎藤村(春樹)とともに、抒情詩人として注目を浴びていた。このふたりには奇妙な相似点と相違点がある。
松岡家は兵庫県辻川で代々医家。島崎家は馬籠の本陣、問屋、庄屋。小村ながら地方の名家である。父親はともに平田派の国学に傾倒、神社の宮司を務め、地方の子弟教育に熱心であった。勉学のため國男は13歳の時に、春樹は10歳の時に上京する。
柳田國男にとっては故郷体験が民俗学の基礎となっているが、愛郷心はない。晩年の労作『海上の道』も異郷への憧れ(外向的)が強い。
島崎藤村は信州を舞台にした作品が多く、故郷に対する現実的な執着心がある。長兄秀雄が土地を売却した後、再び買い戻している。「椰子の実」は故郷回帰(内向的)「いずれの日にか国に帰らん」が濃厚である。
國男は次兄井上通泰の関係で香川景樹の桂園派の流れを組む松浦萩坪(辰男)の門に入る。萩坪の幽冥教の世界は、その後の詩作に大きく影響している。井上通泰は東京大学で森鷗外と同窓であり、『於母影』の訳詩にも参加している。
藤村は学生時代に松尾芭蕉や西行などの古典書物を読み漁っている。
明治期の文学者は西洋の思潮を受け入れるなかで、キリスト教の影響を受けてきた。國男は本郷教会でカナダの牧師に英語を習ったが、キリスト教の世界にも関心を寄せ、洗礼寸前までいった。純潔でプラトニックな恋愛詩につながっているように思われる。
藤村は明治学院で学び、恩師の影響でキリスト教の洗礼を受ける。のちに教え子と問題を起こし六年で棄教する。
ふたりは明治29年頃、『文學界』の新年会の席上で、初めて顔を合わせている。住まいが近くだったこともあり、その後、頻繁に行き来する。この『文學界』に投稿した作品をふたりとも処女詩集としてまとめている。
松岡國男は明治30年(1897)4月に「野邊のゆきゝ」(『抒情詩』所収)を、島崎藤村は同じく明治30年7月に『若菜集』を刊行する。
当時、ふたりは恋愛詩人の双璧と呼ばれていた。ただ柳田は官界入りしてからは詩の掲載も、語ることも拒否したため、「野邊のゆきゝ」は影の薄いものとなった。しかし「若菜集」に先立つものとして注目され、当時も、格調の高さ、典雅さで評価が高い。
ふたりの恋愛体験に詳しく触れる余裕はないが、その資質の違いや作風のバトルは面白い。簡単にその特徴を整理しておきたい。
「野邊のゆきゝ」は、自然の生を信じるアニミズム的自然観、神秘感、新しい夕暮情緒が背景にある。題材、措辞、調べが短調だが、純粋、素直である。「清き君」などプラトニックな純潔性が描かれ、具体的イメージには乏しい。また、暗さはなく澄んだ心情。メルヘンと散文詩を融合した作品は明治期では類例がないといわれる。
前述した幽冥教の世界が國男の作品には濃厚であるが、他の新体詩人も含めて、西洋近代詩の影響がクローズアップされ過ぎて、この古来からの幽冥思想と新体詩との関係を論じたものはあまり見当たらない。ここでは短詩をひとつ。
人に別るとて
磯辺に出でゝ 君と我が
けふも頻に ひろひてし
あまたある貝の その中に
まじりはせずや、忘がひ
交りたりせば 如何せん、
海の汐干に ただ二人
ゆきしあさけを 忘れては
世に在る甲斐も なかるべし
ありそうつ 浪おと高く
もの思ふ夜は ふけにけり、
安くも君が 寝たるかな、
明日は別と なりぬるを、
※忘れがひ:離ればなれになった二枚貝の片方。これをとると恋を忘れるという。
あさけ:夜明け方(朝明け)
ありそ:荒磯
「若菜集」は人生に密着し、現世的で、物語的な構成になっている。自我の覚醒とともに衝動を素直に表現。強い官能性が特徴である。題材が豊富、虚構の意識、破格の調べを持ち、新体詩に和歌、浄瑠璃の調べやリズムを活かしている。
新体詩が漢詩からの脱却といわれながら、意外に江戸期の庶民文芸の流れを取り込んでいることに驚かされる。浄瑠璃や歌舞伎の題材などと新体詩との関係を論じたものも少ないのではないか。國男に比べると官能的な作品をひとつ。
相思
髪を洗へば 紫の
小草のまへに 色みえて
足をあぐれば 花鳥の
われに随ふ 風情あり
目にながむれば 彩雲の
まきてはひらく 絵巻物
手にとる酒は 美酒の
若き愁を たゝふめり
耳をたつれば 歌神の
きたりて 玉の簫(ふえ)を吹き
口をひらけば うたびとの
一ふしわれは こひうたふ
あゝかくまでに あやしくも
熱きこゝろの われなれど
われをし君の こひしたふ
その涙には およばじな
この「野邊のゆきゝ」と「若菜集」は、主に自らの感傷がうたわれている。「抒情詩」と銘打ちながら、個人レベルに留まっている。
感傷(センチメンタリズム)と抒情(リリシズム)は違う。個別と普遍、表面と深層、激情と抑制の違いがあるように思われる。抒情には、豊かな情感に加えて、知性、認識、想像力が必要となってくる。現代詩には欠かせない要素だろう。
ふたりとも社会的現実に目覚めるとともに詩作の限界を意識し始めたのだろう。國男は、「我」、「私」という一人称から、「我々」、「私たち」という一人称複数へと関心を拡大していく。日本人の結合力は孤立の淋しさからきているとして、晩年、「友達」の研究の必要性を説いている。
國男の詩的散文、紀行文を読めば、感傷から真の抒情へと追究していった様子がうかがわれる。藤村も「家族、故郷」という現実を追究する手段として、小説という詩的散文を選択していった。ただ、そのふたりの隔たりは大きい。
最後に柳田國男の自然主義文学批判を掲げておく。この認識の違いが、藤村の長兄秀雄からの台湾での斡旋依頼問題とも関わり、ふたりの断絶を決定的なものにした。
「自分は素より吹けば飛ぶような感傷家の横行を憎む者であるが、同時に多くの所謂私小説が、島崎君などを手本と頼んで、どの位非凡に重苦しく、如何に自分一身に凝り固まって居る生活でも、之を丹念に自白さえすれば、直ちにこれ人間の実録なりと、威張って出し得るような傾向を否認せんと欲する。」(『ささやかなる昔』より)
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