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2011年1月 3日 (月)

ことばを信じる

昨年のウィキリークスによる機密文書の暴露問題は、改めて国際外交にもタテマエとホンネがあることを明らかにした。この暴露問題は政治、経済、社会も含めて、各種報道で表明されることばをそのまま信じることの危険性を浮き彫りにする。

一方で、後を絶たない児童生徒のいじめによる自殺では友人や学校側も含めてことばの問題が大きく取り上げられる。学校という閉鎖空間と、そこでの同調圧力があるとはいえ、ことばへの信頼を裏切られた悲劇ということもできる。

合唱コンクールの課題曲にもなったアンジェラ・アキの「手紙、拝啓十五の君へ」の歌詞にもことばを信じられない苦悩が歌われる。「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は/誰の言葉を信じ歩けばいいの?/ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて/苦しい中で今を生きている/今を生きている」

人はことばを獲得した時、大事なものを失ったといわれる。この世に生まれ落ちた時、欲求や感情はすでに芽生えている。無垢で、純粋で、自然な気持ちを抱いているだろう。ところがことばを覚え始めると、その気持ちに嘘や誇張が混じり始める。ことばがそれを可能にするからだ。人はことばを覚えた時、聖なるものを失ってしまったのだろうか。

うまくことばに表現できない感情や思いがこころのなかには渦巻いている。だから、この世は何かに例えて語るしかないのである。ことばで語られる比喩はあくまで虚構である。この世はその虚構(ことば)に満ち溢れている。物語も、宗教も、科学も、ことばで語られる限り、虚構の代物と言えるかもしれない。嘘を死ぬまで押し通せば、それは真実になるということもできる。

嘘でもいいから、生きる美しさや勇気(哀しさも含めて)を表現できないかと考える。そこに文学もある。ことばに傷ついて人を憎むこともあるが、人のことばに救われることもある。たとえ、そのことばが誇張されたものだとしても、不快なものを不快だと伝えたり、悲しいことを悲しいと伝えたり、感謝の気持ちをありがとうと伝えるのも、ことばに勝る手段はない。人の温もりを感じるのも、優しさを感じるのも、ことばを信じるところから始まっている。

ことばとは実に不思議な働きをする。そのことばをどのように遣うか、それが人間の人間たる所以であろう。ことばへの向き合い方は、そのまま人にとっての生き方に関わってくる。それを前提に「ことばを信じ過ぎるな」ということもできるし、「ことばを信じなくて何を信じるの」ということもできる。

ことばを信じることは、そのまま人を信じることにつながる。人を信じることのできなくなる世界ほど暗いものはない。信じることのできることばは、どこかで肯定的な世界観に支えられているような気がする。それはまた心のあり方も示している。信じることのできることばほど美しいものはない。自戒もこめて、日頃のことばに注意を払っていきたい。

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コメント

仲間が教えてくれた作家、帚木蓬生を次々に読んでいます。
今は「アフリカの瞳」。この中に次のような一行があります。ある女性のシャツに書かれたものとして…「言葉もまた石になる。投石できる」。これを作者は、言葉は石と同じで人を傷つけもできるし、大きな権力に対して異議申し立てにもなると訳しています。わたしたちは言葉を信じ、弱いものにではなく強いものにそれを投げなくては…と思いました。

投稿: 風狂子 | 2011年1月 6日 (木) 22時45分

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