新春鼎談
正月休日に「お茶でも飲まないか」と声をかけられ、自宅近くのぎゃらりー「鬼楽」に伺った。彫刻家の鬼塚良昭氏、詩人の本多寿氏とでの「新春鼎談」であった。
居間は薪ストーブで暖かく、窓からは庭の木々にやってくる野鳥がよく見える。聞けばいろんな野鳥がやってくるのだという。話をしている間だけでも、メジロ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、スズメなどがやってきた。
話は地元の話題から始まって、増えている独居老人、介護での羞恥心の尊重、医師不足による地域医療の問題、地産地消による弁当作り、ミカンの手入れや柿の不作、年末の寒波と南国での積雪など、とりとめのない話が続いた。でも充実したひとときであった。
おふた方との話でよく出るのは、自然との対話と人との繋がりの大事さである。鬼塚氏は木や石を素材に立体作品を作られる。本多氏も自宅周辺の果樹園を題材にした詩作品が多い。自然から学ぶことの大切さを繰り返し述べられる。
そこで思ったのは、ことばには自然のことばと人工的なことばとふたつあるのではないかということである。それは常に自然を意識しながら出ることばとそうでないことばとの違いである。自然に託して話される内容は伝わりやすいが、人工的なことばは観念的になりやすい。
調整されていない補聴器を初めて付けたおばあさんが「山が割るごたっ!」(山が割れるようだ)と比喩したことばの的確さや表現力の豊かさも話題にあがった。方言には自然を対象とした表現が数かぎりなくある。
最近届いた詩誌「Junction77」で柴田三吉さんが書いていた。「語彙の豊かさとは、たんに言葉を多く知っているということではなく、表現として示された内容をどれだけ蓄えているか、ということでもある」
自然から学んだことばには、その内実が豊かに含まれているように感じた。もっと自然と対話しなくてはならない。
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