三人姉妹
先月、チェーホフ「三人姉妹」を観た。
構成・演出は永山智行。「演劇・時空の旅」シリーズ3作目である。セリフは神西清訳をほぼ忠実に用いて、非常にオーソドックスな場面展開に感じられた。
チェーホフは多様な人物を描くのが得意だが、「三人姉妹」でも個性ある人物たちを登場させて観客を飽きさせない。ただ本で読む内容と演劇でのセリフでは印象が異なる。本で読むと斜線を引きたくなる文章も、役者のセリフで聞くとまったく逆の印象になってしまう。哲学的な弁論も滑稽さに映ってしまった。
そこに自在な解釈も演出の妙も出てくるのだろうが、解説に書かれてあった「私たちは何ものかであるかを確かめてみたい」ということを考えさせる劇になっていたか。セリフも早口で、登場人物の関係も複雑で、2時間半の劇でそのことをじっくり考える暇はなかった。
私が劇を観て感じたのは「気まぐれ」ということである。恋も仕事も家族も老いも気まぐれに流れていくという印象であった。「私たちは何ものかであるかを確かめることはできない」という感想に落ち着いた。
チェーホフの脚本は人生劇である。実に見事に人間や社会や人生を切り取って見せる。実際、私は文庫版に何か所も斜線を引いている。だからその気まぐれも単純な気まぐれではない。気まぐれのようでもあり、気まぐれではないような何かでもある。
真摯な気まぐれとしてある。何故、私たちは、私を確かめることができないのか。敵が見えないからである。あらゆる体制や秩序が内部崩壊して、個人や家族や組織との紐帯が稀薄になって、つなぎとめるものを見い出せないからである。悲喜劇の両面、真摯な気まぐれとしてしか、人生をとらえることができないのではないか。
すでに崩壊前夜の1900年ロシアも同様の状態ではなかったのか。生きる希望も夢も失くし、働くことさえ意味を持ち得なくなった時、人々の支えは、刹那的な快楽か、過去の想い出、記憶のなかにある出来事に求めるしかない。その真摯な気まぐれのなかに一条の光が射すとすれば、それは記憶である。
劇では白装束のコロス(無言の脇役)たちが舞台をゆっくり横切る場面があった。そして舞台裏に消え去る時、一度立ち止まり、舞台中央を振り返る動作があった。年配の配役が多かったので、それは人生をふり返る印象を与えた。老年になればなるほど、これまでの人生をふり返ろうとする。
その記憶は新たな意味を帯びてくるのではないか。生きた痕跡を記憶に留めることで、その存在の意味をはかろうとしているかのようである。記憶喪失や失語症、痴呆症の人たちにとって、自らの記憶は再生の手段として重要な役割を果たす。それは希望なのだ。いわば文学はその記憶の体系で出来上がっているといっても過言ではない。
三人姉妹のラストでは、長女のオーリガが去って行く楽隊の演奏(音色)に生きる喜びを感じる場面がある。音は消滅していくが、その記憶は残されていく。この場面はよく引き合いに出されるが、チェーホフはひとつの音に様々な記憶をカプセル化し、作品とともに後世に残していったように感じた。
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