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2011年6月25日 (土)

共時性と四人称

教育研究会の講師として藤井貞和氏が来県し、「出来事としての古文、現代文」と題して講演を行った。刺激的な論考からすると、語りはやわらかく眠くなりそうな話しぶりであったが、その内容は結構、含蓄のある話であった。

東日本大震災の話から始まり、河野幸夫氏の「『末の松山』と海底考古学」を引用しながら、百人一首の「契りなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」や、古今集の「君をおきてあだし心をわがもたば末のまつ山浪もこえなん」などの歌に今回の大津波を予想させるものがあったとして、これまでの解釈が浅薄であったことの無念さを述べられた。

それを展開させる形で、古典文学の読みに地図や歴史年表は欠かせないとして、その意味連関を通して文学をとらえるべきだと強調された。実際に資料を使いながらの説明は説得力があった。確かに年表や地図はそれを眺めているだけでも想像力が刺激される。日本史や国内地図ばかりでなく、東アジアから世界へと目を向けることで、さらにその解釈や理解は深まるだろう。

話題は、最近評判の『日本語と時間』(岩波新書)へと移っていった。助動詞を時間域と形容域、推量域に整理した三角錐の図表は非常にわかりやすい。「つ」と「あり」から、現代の「た」に変化したという話はよく引用されるが、現代語「た」の多様性はそのまま日本語としての豊かさにつながっていく。その使い分けが古典文学にはあったとして、助動詞の多様性を理解することで、古典世界の魅力さはさらに広がっていくということだ。

日本語においては、過去、現在、未来という時間軸が複雑な様相を見せる。あるいは入り乱れる。そのことを私は、通時性より共時性が強いのが日本語の特徴ではないかと考えてみた。因果関係を強調して主体の所在を明確にすることより、時空の概念をいとも簡単に超越し、想像の世界を広げるような仕組みが、まさに「た」の世界なのではないかと思わされた。

さらに藤井は日本語の人称の問題で悩んでいるとして、物語文学が内包する作者や語り手の人称の多様性も話題にした。藤井は、一人称、二人称、三人称以外に、無人称(作者人称)やゼロ人称(語り手人称)、四人称(物語人称)などを設定し、物語の背景を探ろうとする。

それは先の共時性とつながっていくのではないか。現世と来世、人と神、あるいは自然の擬人化など、主体と客体が自在に入れ替わり、あるいは一体化するような仕掛けが人称の複雑さにつながっている。そこに時空を超えた壮大なドラマの語りが可能となる。共時性と人称の多様性が複雑に絡むところに、古典や物語の世界の醍醐味の秘密があるような気がした。

学校で教える国語は、「教科としての国語」と「母国語としての国語」との二面性がある、とかつて聞いたことがある。文法の解釈のなかに母国語としての言語の豊かさを意識しなければ、自らもまた生徒たちへも、古典の魅力を感じ、理解させるのは難しいだろう。言語表現の豊かさは母国語への理解を抜きに語れない。

藤井は学生に文法を教えるしんどさを覚えながらも、成人になってからの古典文学への回帰はやはりかつての文法の授業がきっかけになるといってその必要性を強調していた。私は古典文学にはとんと疎いが、学生の頃にもっと豊かな古典の授業を受けていればと思ったことである。

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2011年6月 7日 (火)

高森文夫の含羞の裏には

延岡が生んだ孤高の詩人本多利通を偲ぶ「卯の花忌」がさる6月4日(土)に延岡市で開催された。第18回になる今回は、中原中也の親友でもあった高森文夫氏の生誕百年を迎えて、そのシベリア抑留時代に焦点をあてた座談会であった。悲惨な現実をどのように受け止め、敗戦を生き抜いたのか、詩作品を鑑賞しながら話がすすんだ。

高森文夫は生涯、チェーホフを愛読していた。高森文夫はチェーホフのどんなところに惹かれたのか、ここ数年、少しずつチェーホフを読んできて、二人には共通点があるように思った。

以前にも触れたことがあるが、二人の生きた時代を調べてみると、戦争や革命など世の中が混乱し、社会が大きく変わっていく時代であることがわかる。将来に対して夢や希望、期待などが持ちにくい時代であった。

特にチェーホフは肺結核に罹り、22歳で喀血し、いつ死んでもおかしくない状態で44歳まで生きた。つまり、時代的にも、身体的にも、絶望的な状況にあったわけである。生きる意味を見出せないと感じた時に、人はどのように生きることができるのか。

チェーホフは、生活のためだったとはいえ、人々の日常生活を細かに観察し、とにかく文章化していった。読者を獲得するために、自らの深刻さを内在させながらも、世の中の滑稽さを徹底して探していった。文学としての出発点はユーモア小説であるが、晩年の戯曲「桜の薗」も没落していく貴族社会を描きながら、それは喜劇として書かれている。深刻さと滑稽さは表裏の関係にあるが、その複眼的思考を深めていったのだろう。

もうひとつは、作品のなかで彼は自分の価値判断や自己主張をつとめて隠そうとしている。つまり、自分を消し続けている。未来に望みがつなげない時、現在の地位や名誉、財産、あるいは知識など何の意味も持たなくなる。そのことを自覚している。

自分を消すということは、繰り返される日常に埋没するということである。意図的に退屈な日常生活を目指していく。絶望的な状況で生きるためには自らを無化し、消去し続けることでしかないと考えたのだ。

そして最後に、大自然に目を向けている。ロシアの自然の雄大さに身を任せている。自然の永遠性にといったらいいだろうか。チェーホフの作品には絶望しながらも生きることを選択する人々がよく描かれている。その生き方を励ますように、必ず自然の風景や音が描かれている。

よく引き合いに出される「谷間」という小説では、幼い息子を殺されたリーパに荷馬車のお爺さんが語りかける。「生きてりゃ、いいことも悪いこともあるさ。しかし母なるロシアはでっけえでなあ」といって自然の大きさや永遠なる大地へと眼を向けさせている。チェーホフは自然の永遠性と一体化することによって、人間の孤独や生活の厳しさを堪え忍び、生きる力を得ていたような気がする。

深刻さと滑稽さを併せ持つこと、自己を消し続けること、自然の永遠性に身を任せること、この三つがチェーホフにとっては、死の淵にありながら、生き伸びる道ではなかったかと思う。

高森文夫はそのチェーホフを生涯愛読していた。それは早くに母を亡くし、親密であった中也を亡くし、長男朔夫を亡くし、シベリア抑留を体験するなかで、生きる意味を問い直していたものと思われる。含羞の詩人と言われているが、自らを多く語らなかったのは、チェーホフのように自己主張せず、自らを消し続けてことに美意識を感じたのかもしれない。

そしてチェーホフの小説や劇のように、劇的なドラマや英雄の登場ではなく、市井の人々や家族、野の花などに目を向けていった。また、中也からの手紙も「チェーホフを読むようだ」と言っていた。中也もまた生きる意味を見出せない時代を生きながら、その茶番を深刻に演じていたのだ。高森文夫もその茶番を自覚しながら、戦中、戦後を生き抜いたのかもしれない。



 囚虜の旅
       高森文夫


北満の荒野のなかを
囚虜の群を満載して
窓のない貨物列車が走る
古生代の怪奇な爬虫類さながらに
いづこの広大なる猟場にて
狩り蒐めたる獲物か
これらのおびたヾしい
空虚な眼(まなこ)の獣の群は
一望の枯野ヶ原を
貧しく点在する聚落のほとりを
切株の残つた高粱畑のなかを
重く長い鉄の鎖のやうに
窓のない貨物列車が
延々と匍匐してゆく
古生代の怪奇な爬虫類さながらに
いやはや 何と珍妙な一幕だ!

窓のない貨物列車のなかで
泥濘のやうな疲労のなかで
移動動物園の檻のなかで
焦燥と虚無 絶望と自棄の狂燥曲のなかで
うつらうつらと然し鋭く痛く
己は後悔し続けてゐる
専らわが過去の茶飯事について
果されなかつたさゝやかな約束について
言ひそびれた一言について
わが過去を星座のやうに飾つた
さまざまな行違ひや喰違ひについて
戦敗れて囚虜となり
知らぬ他国の苦役に服する
咄! 何たる茶番だ
己はそんな事より何より
一片の偽つた愛情について後悔する
窓のない貨物列車のなかの一隅で
怪奇な古生代爬虫類の臓腑のなかで

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2011年6月 6日 (月)

宮崎大宮高等学校校歌の謎

前にも長嶺宏さんのことについて書いたが、この人は宮崎大宮高等学校の校歌も作詞されている。ところがこの詩には謎が多い。


黒潮岸をあらひ日の輝くところ
若き命はここに育つ
真理を探り夢は花咲く
あゝ あゝ 永遠の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園

秀峰空をかぎり雲かけるところ
清き心はここに芽ぐむ
美に憧れ 胸は波うつ 
あゝ あゝ 親愛の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園

清風森を流れ気のすみたるところ
強き体をここに鍛ふ
善を行なひ力溢る
あゝ あゝ 栄光の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園


長嶺さんは当時、宮崎大宮の教頭先生で、その後、宮崎大学の文学部教授になられ、古典文学や文芸評論で活躍された。その本人が、この校歌は屈辱がモチーフになっていると言っているのだ。いわば怨念の歌といえる。

どんな屈辱があったのか。大宮百年史を読むと、当時、日本は戦争に敗れて、この宮崎もアメリカの支配下に置かれていた。そのなかで義務教育を優先するということで、校舎を大宮小学校と交換せよという命令がくだったという。絶対命令だから、従わざるを得ない。梅雨時に先生も生徒も雨のなかを、机椅子を運んで、泥んこ道を教室まで通ったという。

その理不尽さ、悔しさ、どうしようもないやるせなさ。そんな思いで頭がいっぱいだったのであろう。自らの自信や誠実さを踏みにじられて、どうやって生きていったらいいのだろうって。どんな目にあっても信じられるもの。どんな強大な力にも屈せないもの。永遠に変わらないものって何だろう。そう思って、真・善・美というイデーに到達する。

真・善・美というのはプラトンやカントが考えた人間の理想や普遍的な価値のことだ。真は認識、善は倫理、美は愛のことである。また真は自然の調和、善は人間の調和、美は命の調和という人もいる。ところで、この校歌には謎がある。通常、真・善・美という言い方をする。ところが校歌では真・美・善という順番になっている。何故だろうという疑問である。

長嶺さんは真に岸を洗う黒潮を、美に空をかぎる秀峰を、善に森を流れる清風をイメージしている。さらに、輝く太陽や、流れ去る雲や、澄んだ空気をそれぞれ真・美・善に対置している。それらが何を象徴しているかも謎である。この校歌を三角形にすれば、美が頂点で底辺に真と善を配置しているように見える。先ほどの解釈でいえば、認識と倫理を礎に、愛がきている。

先の東北関東大震災の報道のなかでこんな場面があった。大震災で合唱コンクールが中止になり、そこに出場予定していた高校生たちが避難所でその歌声を披露していたのだ。被災した人たちはその歌声に涙を流していた。その涙は生きる哀しみであるかもしれない。あるいは命あることの喜びであるかもしれない。水と食料とともに歌声が大きな力を発揮している。それが美である。美の力ではないかと思う。

どんなにつらくても、怨念があってもそれを乗り越えるには美が必要だと、長嶺さんは考えていたのだと思う。それが認識や倫理とともに崇高な美を二番にもってきた理由ではないか。そして三番までの歌詞に共通するのは星座である。夜空に輝く星である。それぞれに永遠と、親愛と、栄光を対置している。

長嶺さんは何を語りたかったのだろう。暗い夜だけど上を見ろ。星が輝いている。どんな屈辱を受けてもうろたえるな。認識と倫理を深めて、美を磨けと言っているのではないか。当時の長嶺さんの心境を思いながらこの校歌を読むと、様々なメッセージが浮かんでくるのである。

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