« 三人姉妹 | トップページ | 高森文夫の含羞の裏には »

2011年6月 6日 (月)

宮崎大宮高等学校校歌の謎

前にも長嶺宏さんのことについて書いたが、この人は宮崎大宮高等学校の校歌も作詞されている。ところがこの詩には謎が多い。


黒潮岸をあらひ日の輝くところ
若き命はここに育つ
真理を探り夢は花咲く
あゝ あゝ 永遠の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園

秀峰空をかぎり雲かけるところ
清き心はここに芽ぐむ
美に憧れ 胸は波うつ 
あゝ あゝ 親愛の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園

清風森を流れ気のすみたるところ
強き体をここに鍛ふ
善を行なひ力溢る
あゝ あゝ 栄光の星座
大宮 大宮 大宮
我等が学園


長嶺さんは当時、宮崎大宮の教頭先生で、その後、宮崎大学の文学部教授になられ、古典文学や文芸評論で活躍された。その本人が、この校歌は屈辱がモチーフになっていると言っているのだ。いわば怨念の歌といえる。

どんな屈辱があったのか。大宮百年史を読むと、当時、日本は戦争に敗れて、この宮崎もアメリカの支配下に置かれていた。そのなかで義務教育を優先するということで、校舎を大宮小学校と交換せよという命令がくだったという。絶対命令だから、従わざるを得ない。梅雨時に先生も生徒も雨のなかを、机椅子を運んで、泥んこ道を教室まで通ったという。

その理不尽さ、悔しさ、どうしようもないやるせなさ。そんな思いで頭がいっぱいだったのであろう。自らの自信や誠実さを踏みにじられて、どうやって生きていったらいいのだろうって。どんな目にあっても信じられるもの。どんな強大な力にも屈せないもの。永遠に変わらないものって何だろう。そう思って、真・善・美というイデーに到達する。

真・善・美というのはプラトンやカントが考えた人間の理想や普遍的な価値のことだ。真は認識、善は倫理、美は愛のことである。また真は自然の調和、善は人間の調和、美は命の調和という人もいる。ところで、この校歌には謎がある。通常、真・善・美という言い方をする。ところが校歌では真・美・善という順番になっている。何故だろうという疑問である。

長嶺さんは真に岸を洗う黒潮を、美に空をかぎる秀峰を、善に森を流れる清風をイメージしている。さらに、輝く太陽や、流れ去る雲や、澄んだ空気をそれぞれ真・美・善に対置している。それらが何を象徴しているかも謎である。この校歌を三角形にすれば、美が頂点で底辺に真と善を配置しているように見える。先ほどの解釈でいえば、認識と倫理を礎に、愛がきている。

先の東北関東大震災の報道のなかでこんな場面があった。大震災で合唱コンクールが中止になり、そこに出場予定していた高校生たちが避難所でその歌声を披露していたのだ。被災した人たちはその歌声に涙を流していた。その涙は生きる哀しみであるかもしれない。あるいは命あることの喜びであるかもしれない。水と食料とともに歌声が大きな力を発揮している。それが美である。美の力ではないかと思う。

どんなにつらくても、怨念があってもそれを乗り越えるには美が必要だと、長嶺さんは考えていたのだと思う。それが認識や倫理とともに崇高な美を二番にもってきた理由ではないか。そして三番までの歌詞に共通するのは星座である。夜空に輝く星である。それぞれに永遠と、親愛と、栄光を対置している。

長嶺さんは何を語りたかったのだろう。暗い夜だけど上を見ろ。星が輝いている。どんな屈辱を受けてもうろたえるな。認識と倫理を深めて、美を磨けと言っているのではないか。当時の長嶺さんの心境を思いながらこの校歌を読むと、様々なメッセージが浮かんでくるのである。

|

« 三人姉妹 | トップページ | 高森文夫の含羞の裏には »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 宮崎大宮高等学校校歌の謎:

« 三人姉妹 | トップページ | 高森文夫の含羞の裏には »