高森文夫の含羞の裏には
延岡が生んだ孤高の詩人本多利通を偲ぶ「卯の花忌」がさる6月4日(土)に延岡市で開催された。第18回になる今回は、中原中也の親友でもあった高森文夫氏の生誕百年を迎えて、そのシベリア抑留時代に焦点をあてた座談会であった。悲惨な現実をどのように受け止め、敗戦を生き抜いたのか、詩作品を鑑賞しながら話がすすんだ。
高森文夫は生涯、チェーホフを愛読していた。高森文夫はチェーホフのどんなところに惹かれたのか、ここ数年、少しずつチェーホフを読んできて、二人には共通点があるように思った。
以前にも触れたことがあるが、二人の生きた時代を調べてみると、戦争や革命など世の中が混乱し、社会が大きく変わっていく時代であることがわかる。将来に対して夢や希望、期待などが持ちにくい時代であった。
特にチェーホフは肺結核に罹り、22歳で喀血し、いつ死んでもおかしくない状態で44歳まで生きた。つまり、時代的にも、身体的にも、絶望的な状況にあったわけである。生きる意味を見出せないと感じた時に、人はどのように生きることができるのか。
チェーホフは、生活のためだったとはいえ、人々の日常生活を細かに観察し、とにかく文章化していった。読者を獲得するために、自らの深刻さを内在させながらも、世の中の滑稽さを徹底して探していった。文学としての出発点はユーモア小説であるが、晩年の戯曲「桜の薗」も没落していく貴族社会を描きながら、それは喜劇として書かれている。深刻さと滑稽さは表裏の関係にあるが、その複眼的思考を深めていったのだろう。
もうひとつは、作品のなかで彼は自分の価値判断や自己主張をつとめて隠そうとしている。つまり、自分を消し続けている。未来に望みがつなげない時、現在の地位や名誉、財産、あるいは知識など何の意味も持たなくなる。そのことを自覚している。
自分を消すということは、繰り返される日常に埋没するということである。意図的に退屈な日常生活を目指していく。絶望的な状況で生きるためには自らを無化し、消去し続けることでしかないと考えたのだ。
そして最後に、大自然に目を向けている。ロシアの自然の雄大さに身を任せている。自然の永遠性にといったらいいだろうか。チェーホフの作品には絶望しながらも生きることを選択する人々がよく描かれている。その生き方を励ますように、必ず自然の風景や音が描かれている。
よく引き合いに出される「谷間」という小説では、幼い息子を殺されたリーパに荷馬車のお爺さんが語りかける。「生きてりゃ、いいことも悪いこともあるさ。しかし母なるロシアはでっけえでなあ」といって自然の大きさや永遠なる大地へと眼を向けさせている。チェーホフは自然の永遠性と一体化することによって、人間の孤独や生活の厳しさを堪え忍び、生きる力を得ていたような気がする。
深刻さと滑稽さを併せ持つこと、自己を消し続けること、自然の永遠性に身を任せること、この三つがチェーホフにとっては、死の淵にありながら、生き伸びる道ではなかったかと思う。
高森文夫はそのチェーホフを生涯愛読していた。それは早くに母を亡くし、親密であった中也を亡くし、長男朔夫を亡くし、シベリア抑留を体験するなかで、生きる意味を問い直していたものと思われる。含羞の詩人と言われているが、自らを多く語らなかったのは、チェーホフのように自己主張せず、自らを消し続けてことに美意識を感じたのかもしれない。
そしてチェーホフの小説や劇のように、劇的なドラマや英雄の登場ではなく、市井の人々や家族、野の花などに目を向けていった。また、中也からの手紙も「チェーホフを読むようだ」と言っていた。中也もまた生きる意味を見出せない時代を生きながら、その茶番を深刻に演じていたのだ。高森文夫もその茶番を自覚しながら、戦中、戦後を生き抜いたのかもしれない。
囚虜の旅
高森文夫
北満の荒野のなかを
囚虜の群を満載して
窓のない貨物列車が走る
古生代の怪奇な爬虫類さながらに
いづこの広大なる猟場にて
狩り蒐めたる獲物か
これらのおびたヾしい
空虚な眼(まなこ)の獣の群は
一望の枯野ヶ原を
貧しく点在する聚落のほとりを
切株の残つた高粱畑のなかを
重く長い鉄の鎖のやうに
窓のない貨物列車が
延々と匍匐してゆく
古生代の怪奇な爬虫類さながらに
いやはや 何と珍妙な一幕だ!
窓のない貨物列車のなかで
泥濘のやうな疲労のなかで
移動動物園の檻のなかで
焦燥と虚無 絶望と自棄の狂燥曲のなかで
うつらうつらと然し鋭く痛く
己は後悔し続けてゐる
専らわが過去の茶飯事について
果されなかつたさゝやかな約束について
言ひそびれた一言について
わが過去を星座のやうに飾つた
さまざまな行違ひや喰違ひについて
戦敗れて囚虜となり
知らぬ他国の苦役に服する
咄! 何たる茶番だ
己はそんな事より何より
一片の偽つた愛情について後悔する
窓のない貨物列車のなかの一隅で
怪奇な古生代爬虫類の臓腑のなかで
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コメント
風狂子さん、屯倉望さん、コメントありがとうございます。
高森のシベリア抑留の意味はさまざまに解釈できます。作品そのものよりも、中也と文夫、それぞれの生涯のなかに、なにかドラマツルギーを感じるのは時代の孕む闇がそこに反映しているからでしょうか。
投稿: | 2011年8月22日 (月) 23時48分
高森文夫といえば、中原中也全集の月報(?)だったかに掲載されていた、中也を生家に迎えての夏の旅について書かれた文章が印象に残っています。白い麻のスーツに身を包んだ中也と二人、列車の座席に居汚く座り、傍若無人に昼間から酒を飲むシーンが、何やら郷愁と悲哀を誘うかのように叙述されていました。その文章の記憶から高森が日向の生まれであることは知っていましたが、シベリア抑留体験については全く知りませんでした。それというのも、昭和初期の詩人・中也という印象からして、中也につながる詩人たちと太平洋戦争とのリンクがどうも腑に落ちない印象があるからでしょう。これが、小林秀雄や大岡昇平であれば、その批評文や作品との関連もあって戦争との結びつきもスンナリと受け入れられるのですが…。そのあたりが評論家や作家と、詩人とのそれぞれに対するイメージの違いといったものなのでしょうか。もっとも、中也が太平洋戦争時に生存していたらどんな対応をしただろうか、という問題は中也の詩の評価にとって重要な結節点になるようにも思われますが…。
引用されている高森文夫の詩を読んで、かなりの饒舌体であるのが意外でした。第二連に詠われる「果されなかつたさゝやかな約束について」「言ひそびれた一言について」「わが過去を星座のやうに飾つたさまざまな行違ひや喰違ひについて」という詩句が活かされるように
全体をもう少し刈り取れば……と感じましたが、一篇だけを読んで出過ぎたことを言ってはいけませんね。
投稿: 屯倉 望 | 2011年8月22日 (月) 15時35分
ひとは、しがらみから抜け出せない時、現実との間に皮膜を作るもののように思います。高森文夫の穏やかさは
諦念との表裏ではなかったでしょうか。先だっても言ったように、国外(特に現在よりずっと外国が遠いものであるとき)でこそ、高森はそこに自分を素直に出せたのだ、と思います。非現実の場所は、たとえ身体的に拘束されていても、精神的には自由を謳歌していた、と、わたしは感じました。
投稿: 風狂子 | 2011年6月 8日 (水) 22時53分