共時性と四人称
教育研究会の講師として藤井貞和氏が来県し、「出来事としての古文、現代文」と題して講演を行った。刺激的な論考からすると、語りはやわらかく眠くなりそうな話しぶりであったが、その内容は結構、含蓄のある話であった。
東日本大震災の話から始まり、河野幸夫氏の「『末の松山』と海底考古学」を引用しながら、百人一首の「契りなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」や、古今集の「君をおきてあだし心をわがもたば末のまつ山浪もこえなん」などの歌に今回の大津波を予想させるものがあったとして、これまでの解釈が浅薄であったことの無念さを述べられた。
それを展開させる形で、古典文学の読みに地図や歴史年表は欠かせないとして、その意味連関を通して文学をとらえるべきだと強調された。実際に資料を使いながらの説明は説得力があった。確かに年表や地図はそれを眺めているだけでも想像力が刺激される。日本史や国内地図ばかりでなく、東アジアから世界へと目を向けることで、さらにその解釈や理解は深まるだろう。
話題は、最近評判の『日本語と時間』(岩波新書)へと移っていった。助動詞を時間域と形容域、推量域に整理した三角錐の図表は非常にわかりやすい。「つ」と「あり」から、現代の「た」に変化したという話はよく引用されるが、現代語「た」の多様性はそのまま日本語としての豊かさにつながっていく。その使い分けが古典文学にはあったとして、助動詞の多様性を理解することで、古典世界の魅力さはさらに広がっていくということだ。
日本語においては、過去、現在、未来という時間軸が複雑な様相を見せる。あるいは入り乱れる。そのことを私は、通時性より共時性が強いのが日本語の特徴ではないかと考えてみた。因果関係を強調して主体の所在を明確にすることより、時空の概念をいとも簡単に超越し、想像の世界を広げるような仕組みが、まさに「た」の世界なのではないかと思わされた。
さらに藤井は日本語の人称の問題で悩んでいるとして、物語文学が内包する作者や語り手の人称の多様性も話題にした。藤井は、一人称、二人称、三人称以外に、無人称(作者人称)やゼロ人称(語り手人称)、四人称(物語人称)などを設定し、物語の背景を探ろうとする。
それは先の共時性とつながっていくのではないか。現世と来世、人と神、あるいは自然の擬人化など、主体と客体が自在に入れ替わり、あるいは一体化するような仕掛けが人称の複雑さにつながっている。そこに時空を超えた壮大なドラマの語りが可能となる。共時性と人称の多様性が複雑に絡むところに、古典や物語の世界の醍醐味の秘密があるような気がした。
学校で教える国語は、「教科としての国語」と「母国語としての国語」との二面性がある、とかつて聞いたことがある。文法の解釈のなかに母国語としての言語の豊かさを意識しなければ、自らもまた生徒たちへも、古典の魅力を感じ、理解させるのは難しいだろう。言語表現の豊かさは母国語への理解を抜きに語れない。
藤井は学生に文法を教えるしんどさを覚えながらも、成人になってからの古典文学への回帰はやはりかつての文法の授業がきっかけになるといってその必要性を強調していた。私は古典文学にはとんと疎いが、学生の頃にもっと豊かな古典の授業を受けていればと思ったことである。
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