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2011年7月10日 (日)

自然への畏怖

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日曜日の昼下がり、ふと思い付いて宮崎市椿山公園に出かけた。市内から車で40分ほどで展望台まで着く。この日も酷暑日であったが、双石山山系の頂上は爽やかな涼風が吹き抜けて気持ちよかった。


帰路の途中、神社の鳥居を見かけ、ちょっと立ち寄ってみた。姥ヶ嶽神社という。始めての道なので、これまで私は知らなかった。境内はすぐだろうと思い、登り始めるがなかなか着かない。


急坂な登山道をあえぎながら登ること30分くらいだったろうか。やっと境内に着く。ここは修験道の霊場にもなっていたらしい。


役小角(えんのおづぬ)も祀られている。かつて山を仕事場とした木地師や山窩の守護神でもある。神通力が豊かでいろんなエピソードがある。想像力を掻き立てられる人物でもある。


山道を登りながら考えた。先日、NHKのクローズアップ現代でも放映されたが、ドナルド・キーン氏は日本人の何に感動したのかということである。今回の東日本大震災の報道でも世界中から日本人の我慢強さや律儀さが絶賛された。


キーン氏に影響を与えた書物に、高見順の敗戦日記がある。キーン氏が感動したという箇所にはこう書かれてある。


「私の目に、いつか涙が湧いていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。(中略) 何の頼るべき能力もそうして財力も持たない、黙々と我慢をしている、そして心から日本を愛し、信じている庶民の私も一人だった。」


日本人のなかなある、あるいは人間のなかにある何かに触れているような気がする。たまたま姥ヶ嶽神社に参詣して、それはアニミズムではないかと考えてみた。自然を畏怖し、崇拝する心のなかに先ほどの我慢強さや律儀さが育まれたのではないか。


アニミズムでは山そのものが御神体となる。母胎でもある。「姥ヶ嶽」という命名そのもののなかに、自然への畏怖と尊厳と生命への不思議さが表われている。様々な物語が生まれてきたであろう。奥の院への山道には胎内くぐり(生まれ清まる)の岩場もあるという。


中沢新一は原子力発電を荒ぶる一神教の神だとした。アニミズムに慣れた日本人には異質の神である。手に負えないものを相手にしてしまった悔恨は、今後、二十年、三十年、あるいは百年以上残り続けるであろう。その責任は私たちも負わねばならない。


下山すると、鳥居の横には水飲み場があった。市内から水汲みに来る人が多いようだ。ペットボトルを何本も抱えた人に出会う。その水をひとくち含むと暑さと疲れが一気に消し飛んだ。体内に沁み込む。水への感謝も自然にわいてくる。


久し振りの短い登山であったが、ひとときの清涼剤となった。

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