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2011年8月27日 (土)

聴くということ

自らを確認するには他者の存在が必要である。例えば、自らの思いや考えを誰かに語ることで、イメージや思考が整理されたり、今まで気づかなかったことに気づいたりすることがある。そのような他者の存在はとても貴重である。

悩み事や心配事を他人に話すとすっきりするとよくいわれる。しかし、そのことの意味が深く掘り下げられることはない。話す相手が誰でもよいということにはならない。理解されなくても、話した内容(ことば)を真剣に受け取ってもらえる相手ということになろう。

「聴くというのは相手の鏡になろうとすることである」「聴くだけという受動的な行為がケアにおいてはもっとも深い力をもちうる」(『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』鷲田 清一著)という。

私たちは、ことばで自らの存在を確かめている。しかし、そのためにはどうしても他者の存在が必要となる。乳幼児にとってはまず母親かもしれない。「注意を持って聴く耳があってこそ、はじめてことばが生まれる」ということなのだ。柳田國男は子どもの絵空事に耳を傾ける大事さを説いていた。

オタク族の増加が話題になって久しい。社会では自己アピールや表現力が求められている。一方で、コミュニケーション力の欠如も指摘されている。それはことばの衰弱を意味している。

しかし、それは同時に聴く者の不在を意味していないか。どのように表現力を高めようとしても、それを真剣に受け止める相手がいなければ、ことばは磨かれないし、豊かにもならないだろう。自らを形成することもできない。

「語るひとは聴くひとを求めている。語ることで傷つくことがあろうとも、それでもみずからを無防備なまま差しだそうとする」それに共感したり、同調したりするには、聴く側にも相当の負担を強いることとなる。看護士に早期退職者が多いのは、身体的疲労だけでなく、さまざまな患者の話に共感、同調してバーンアウトするからだという。

しかし、悩みを誰かに打ち明けるという行為は、そこで物語が作られるという創作行為が行われているのではないだろうか。ことばとは協働作業のなかに生まれる。それは生きることと同じ意味を付与されている。だからこそ、単なる「聞き上手は、話上手」といった素質の問題ではなく、「どのようにして他者に身を開いているかという、聴く者の態度や生き方が、つねに問われている」ことになる。

自らを語るということは他とは異なる特異な個を持つということだろう。個はまた特異なる他者によって確認できるし、その距離感がまた必要なのだ。そのような聴き手を持つことは幸せであろうし、そのためにもまた自ら聴くことの力を鍛えねばならない。

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