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2011年11月23日 (水)

開かれた世界

Img_5074本多寿さんから「郁朝展、やっているから行かないか」との誘いで、木城えほんの郷に「黒木郁朝の世界展」を観に行った。そろそろ紅葉もしているだろうと、えほんの郷の風景や、もちろん作品展も、行中の会話も楽しみであった。

例年、暖冬のせいか、あるいは霜降が少ないせいか、最近では紅葉しないまま落葉する樹木が多い。夏からそのまま冬になるような、そんな感じである。案の定、今年もそんな光景であった。

郁朝氏の版画作品はいつ見ても楽しい。こころ落ち着く感じがする。今回も野の花を題材にしたものが多かったが、見ていて飽きさせない。よく観ると、自然や人物、宇宙、生活用具など、実に繊細に描かれている。生命や人の優しさ、生きる楽しさなどが小さな画面に展開されている。

若い頃に比べて、さらに自己主張の強さが影を潜め、色彩に深みと奥行きが出てきた印象である。本人は「点から線に意識が動いている」というようなことを語っていた。

4年前も書いているが、白を基調とした作品に秀逸なものを感じた。重ね塗りの効用なのか、年輪を重ねてきて、淡い色彩のなかに様々な陰影が隠されている。観る者の想像力にゆだねる、枠にはめ込まない自由さが感じられた。

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日常、見慣れた自然のなかに、ふと、新たな世界や奥深さを感じることがあるという。ありふれた光景のなかに、ふと、浮上してくる光景もある。それが何なのかはわからないが、切り取られた世界のなかに、静かに立ち上がってくる躍動感みたいなものが感じられる。

私たちは、目立つ色彩や語彙で表現される作品に目を奪われがちだが、本物は、意外に目立たない日常のなかに隠れているのではないか。「目立つ作品には閉じられた世界が多い」ということも話題にあがった。「開かれている世界」とはどういう世界なのだろう。

同様のことは、リアリティを感じる作品と作品のリアルさとは異なるということにもつながっていく。絵画や詩の話から、俳句や漢詩、飲み方の話まで広がって、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 

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2011年11月17日 (木)

失われたトポス

Kai1_2甲斐龍二作品展「人間と空間」が県立美術館で行われた。

40年の軌跡として、27点ほどの作品が展示され、彼の主要な作品が概観できた。これらのなかでは1970年代後半に制作された「ありふれた光景」シリーズが、やはり印象深かった。

樹木や森、空のなかに人工的な石組みや石畳が敷かれ、あるいは自然の風景が四角に切り取られ、宙に浮いている。これは明らかに風景ではなく、光景(シーン)なのだ。

そこに描かれる事物は具象なのだが、現実にある風景ではない。樹木や石塊、球体などを精密に描き出しているが、その印象はどこか寂寥と透明感が漂っている。

1970年代後半といえば、オイルショックによりバブルがはじけ、世界全体が経済不況に陥った時期である。豊かさの後の飢餓感といったらよいであろうか。「人間と空間」と銘打たれながら、人物はほとんど描かれていない。

空間のなかに人間の居場所がないのだ。見慣れた風景さえもがどこかよそよそしさを感じさせ、冷たく乾いた寂しさを湛えている。人工が自然を凌駕し、本来、自然体であるべき人間の領域が失われてしまっている。

この「ありふれた光景」はいわば逆説的なタイトルとなっている。現実にはどこにもない風景となっているのだ。その寂寞感や悲哀感が、樹木や空、石畳のなかに、抒情として浮かび上がってくる。色彩は原色に近く、透き通っている。ただ、その後の彼は「DIMENSION」シリーズを経て、「断片」シリーズに至る過程で、さらに飢餓意識を増していったような気がする。

Kai2_2ある意味、かつてあった抒情を切り捨てていったように思われる。最近の「蓮華」シリーズでは、蓮の華が直立し、ある種、宗教的な気配も漂わせるが、出口の見えない世界で、苦悩しているようにさえ見える。

ただ、空だけは相変わらず青い。こだわり続ける空の空間に、彼の特徴があるのかもしれない。空のなかに消え入ってしまいたいという願望を感じた。現実に居場所を喪失した以上、空を見上げるしかないのだ。

しかし、あくまでこの世を捨てきれないでいる。そのこだわりも、また、この「蓮華」シリーズには感じた。そこに新たな抒情も浮上してくるのではないか。それが、彼の創作意欲の一端になっているような気がするのである。

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