失われたトポス
甲斐龍二作品展「人間と空間」が県立美術館で行われた。
40年の軌跡として、27点ほどの作品が展示され、彼の主要な作品が概観できた。これらのなかでは1970年代後半に制作された「ありふれた光景」シリーズが、やはり印象深かった。
樹木や森、空のなかに人工的な石組みや石畳が敷かれ、あるいは自然の風景が四角に切り取られ、宙に浮いている。これは明らかに風景ではなく、光景(シーン)なのだ。
そこに描かれる事物は具象なのだが、現実にある風景ではない。樹木や石塊、球体などを精密に描き出しているが、その印象はどこか寂寥と透明感が漂っている。
1970年代後半といえば、オイルショックによりバブルがはじけ、世界全体が経済不況に陥った時期である。豊かさの後の飢餓感といったらよいであろうか。「人間と空間」と銘打たれながら、人物はほとんど描かれていない。
空間のなかに人間の居場所がないのだ。見慣れた風景さえもがどこかよそよそしさを感じさせ、冷たく乾いた寂しさを湛えている。人工が自然を凌駕し、本来、自然体であるべき人間の領域が失われてしまっている。
この「ありふれた光景」はいわば逆説的なタイトルとなっている。現実にはどこにもない風景となっているのだ。その寂寞感や悲哀感が、樹木や空、石畳のなかに、抒情として浮かび上がってくる。色彩は原色に近く、透き通っている。ただ、その後の彼は「DIMENSION」シリーズを経て、「断片」シリーズに至る過程で、さらに飢餓意識を増していったような気がする。
ある意味、かつてあった抒情を切り捨てていったように思われる。最近の「蓮華」シリーズでは、蓮の華が直立し、ある種、宗教的な気配も漂わせるが、出口の見えない世界で、苦悩しているようにさえ見える。
ただ、空だけは相変わらず青い。こだわり続ける空の空間に、彼の特徴があるのかもしれない。空のなかに消え入ってしまいたいという願望を感じた。現実に居場所を喪失した以上、空を見上げるしかないのだ。
しかし、あくまでこの世を捨てきれないでいる。そのこだわりも、また、この「蓮華」シリーズには感じた。そこに新たな抒情も浮上してくるのではないか。それが、彼の創作意欲の一端になっているような気がするのである。
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