ふたつの詩集
現代詩は難しいといわれる。
しかし、詩を読むことは世界を読むことと同じだと思っている。
この世の中は、そう分かりやすいことばかりではない。
詩が滅んだら、世界も滅ぶだろう。
昨年末に仲間が詩集を出した。
『小景有情』木下貴志男
『海の憂鬱』佐藤純一郎
木下は63歳、佐藤は28歳である。
そのふたりが宮崎の「日差し」をどうどらえているか。
・・・
田の中に 生まれたばかりの一匹の蝌蚪
ものうげにからだをくねらせているのは
やわらかな日差しのせいだ
(注)蝌蚪:オタマジャクシ
木下「風 棚田を渡る」より
・・・
━もはや太陽さえも その温和な光を憩わせることのない
虚ろな空洞をいくつも持った亡骸となった私━
佐藤「牧歌(夜明けの埋葬)」より
木下は「ものうげ」が「やわらかい日差しのせいだ」といい、佐藤は「温和な光」が「虚ろな空洞」をつくっているという。
世代の違いこそあれ、「宮崎の明るい太陽」を肯定的にはとらえていない。
ふたりの表現を通しても、一般に流布している宣伝文句とのズレが意識できる。
その重層性こそが豊かな地域環境を作っていくと思っている。
やはり、詩は読まれなければならない。
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コメント
今年はじめての発言ですね。わたしはこの詩行をちがう様に読みました。木下(日差しのやわらかさに包まれて警戒心もなくのんびりと)、佐藤(僕に巣くった空洞は温和なやさしい光さえ拒否して)というふうに。まぁ、どちらも良い詩質を持った詩人ですから多様な読みをゆるしてくれるでしょう…。
投稿: 風狂子 | 2013年1月14日 (月) 11時34分