宮日出版文化賞
拙著『哀調の旋律ー柳田國男の世界』が第23回宮日出版文化賞(宮崎日々新聞社主催)を受賞することになった。
この賞との関わりは18年前に遡る。当時、編集委員として加わった『本多利通全詩集』が第4回の同賞を受賞している。その受賞をきっかけに、編集委員を中心に、本多利通を偲ぶ「卯の花忌」が企画され、今日まで、県北を中心にした近現代詩の懇談会が続いている。
本多利通氏には延岡時代に懇意にしていただき、彼を中心に、若い仲間と詩や文学について語る場を持てたことはやはり大きな励みであった。 利通氏との交流がなければ、今日まで書き続けていたかどうかわからない。その意味で今回の受賞はまず本多利通氏に報告したいと思った。
と同時に、当時、一緒に同人誌を作った仲間、特に全詩集の編集委員にも名を連ねた牧野正史(享年49歳)とともに喜びたいと思った。(写真は『渡辺修三著作集』の取材中、左から、本多利通、私、牧野陽子、牧野正史-当時、佐藤姓-敬称略、以下同様)
この著作のなかでは「遠野物語考」に最も時間を割いた。それを文芸誌「しゃりんばい」に投稿し、真っ先に取り上げてくれたのが、当時、宮崎日々新聞の詩の選者であった金丸枡一氏(故人)であった。
そして当時の文芸欄を担当していたみえのふみあき氏がさら詳しく論じ、作品の意味づけをしてもらった。 このお二方の激励と批評がなければ、内容をさらに深めることができたかどうか心許ない。ともに忘れることのできないお二方である。(写真は、左からみえのふみあき、本多寿、私)
宮崎県民俗学会の機関誌「みやざき民俗」に「柳田國男の紀行文」を載せてもらったが、会長であった山口保明氏とは三度ほど会って話す機会があった。氏が俳人でもあることが非常に心強かった。故人となられたが、彼にもお礼と報告をしたい。
著書として編集してもらったのが、高岡に居住して以来、行き来をしている本多企画の本多寿氏である。利通氏の弟に当たられるが、彼の進言により、特に柳田國男の詩人的側面を加えたことが、この本の内容を広がりのあるものにしたと思う。もちろん本作りのプロで絵心もあるため、本の装丁もお願いした。今回の著作は中身よりこの装丁とタイトルがよく話題となった。
宮日紙上では、東京の柴田三吉氏に書評を書いていただいた。柴田氏は詩人でもあり、出版社も経営されている。氏とは来宮の際、何度か飲んだことがある。書評には定評があり、その依頼を快く引き受けていただいた。この書評も非常にわかりやすく、新たな視点で整理され、好評であった。(写真は、左から柴田三吉、私、三尾和子、本多寿)その他、杉谷昭人氏にも文芸欄で取り上げてもらった。
今回の拙著は日頃から詩誌や詩集などの交換をしている詩人を中心に送らせてもらった。その感想には、本人以上に鋭い考察や新たな視点などが返ってきていた。そして人により、印象に残った箇所が違っており、そのバラエティが面白かった。
「遠野物語」は多くの人に論じられているが、それだけ物語の豊かさが感じられ、その解釈や構造分析は飽きない魅力を持っている。伝承の世界に言語論や精神分析学、構造主義などの視点をあてることで、私たちの内部に眠っている感情やメタ言語を呼び戻そうと考えた。
「柳田國男の紀行文」については、旅人としての柳田に焦点をあて、旅の持つ漂泊や放浪に人生の生き様を重ねてみた。西日本新聞紙上ではこのことが評価されていた。「哀調の旋律」という本のタイトルもここから取ったものである。
「薄暮の詩人」については、島崎藤村との比較で近代の抒情詩や自然主義文学をとらえ直してみたのだが、引用も多く、少し力不足を感じた。ただ、詩人としての柳田國男や反自然主義文学の視点については意外に理解者が少なく、そのことが反響の大きさにもつながったように思う。
柳田國男と宮崎との関係でいえば、やはり民俗学発祥の地としての椎葉がエポックになりやすい。夕刊デイリー新聞では拙著のなかで「椎葉探訪」について触れてもらった。ただ、未だに柳田の椎葉体験の真の意味はわからない。その意味は何かとてつもなく大きいことのように思われるが、さらに分析する必要があろう。
それだけ『後狩詞記』や柳田の椎葉訪問の目的は研究され続ける必要がある。例えば、柳田が驚いたように、狩の作法や組織のあり方に現代を見直す視点があるように思われる。
それらを地元にいて研究する雰囲気や環境を作っていく必要があるのかもしれない。そのきっかけに拙著がいくらかでもお役に立てればと思う。