かつて詩誌「視力」5号(2014.4.4)のエッセー補助線にハンナ・アーレントのことを書いたことがある。今、改めて彼女のことが思い返される。
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少しちじれ毛の髪、対象を見つめる黒い瞳、スジの通った鼻、薄めの唇、首を傾げ顔に手をやる癖のあるポーズ、若い頃のハンナ・アーレントは思慮的であり、とても魅力的だ。ドイツ系ユダヤ人で、ヘビースモーカーだったという。
「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」といって、最後までハイデガーの言葉を信じ続けようとしていた。彼の主著『存在と時間』(1927年)は、ハーレントと恋愛関係にあるときに著されている。1931年頃、ハイデガーはナチに入党しヒットラーを讃える演説をしている。それにもかかわらず、ハーレントはかつての愛人であったハイデガーの純真さや弱さを理解しようと努めている。
だからこそであったか。ナチス弾劾裁判(1961年)で、親衛隊長であったアイヒマンの非人間性を批難するのではなく、なぜ悲劇が起こされたのかについて関心が向かう。
裁判でアイヒマンは応える。「私は命令に従っただけです。殺害するかは命令次第でした」
これを聞いてアーレントは考える。「アイヒマンは反ユダヤではない。ただの役人に過ぎなかった。彼が二十世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ。本当の悪は平凡な人間が行う」として、これをアーレントは『悪の凡庸さ』と名付けた。
アドルフ・アイヒマンは高校中退後、1932年ナチス親衛隊入隊。1935年ユダヤ人担当課に配属され、ユダヤ人追放の執行者として頭角を現す。終戦までユダヤ人列車移送の最高責任者を務めた。
「上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまう。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう」(映画「ハンナ・アーレント」解説より)
今、次なるアイヒマンが続々と生まれてきているように思えるのは錯覚だろうか。
『人間の条件』(1958年)で、ハンナ・アーレントはその思考放棄、思考欠如を危惧していた。その大きな要因に人工衛星と原子爆発の発明を上げている。それは汚れた地球からの逃避であり、その地球の爆破と映ったからである。
「地球の提供する条件とは根本的に異なった人口の条件のもとで生きなければならなくなったとき、労働も仕事も活動も、そして実際私たちが理解しているような思考さえ、もはや意味をもたなくなるだろう」という。
この地球に生きていることを思考の原点に置いていた。近代科学の知識と思考には懐疑的でならざるを得なかった。アーレントには、地球上に住むことの意味が希薄になり、「人びとの間にあることを止める」とき、知識と思考が永遠に分離されるように見えたのである。
彼女のことばに「与えられたままの人間存在というのは、どこからかタダで貰った贈り物」というのがある。今、その贈り物を他のものと交換しようとしているというのである。
「私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工的機械が実際に必要となるだろう。・・・それがどれほど恐るべきものであるにしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるであろう」と書いている。
彼女の予言は当たったように思える。最先端技術を駆使するロボット工学、あるいは原子力発電、遺伝子操作などは、少なくとも私の理解の範疇をはるかに超えている。「思考なき被造物」、それが、今、人間の代名詞になろうとしている。
人間は「死すべきもの」だからこそ、物語を作れるのである。永遠、不死に物語は生まれない。むしろ、永遠、不死の宇宙に向き合うなかで、唯一、死すべき者だからこそ、人間の任務と偉大さがあるというのである。人間の条件とは何か。改めて再考を促される。
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「悪の凡庸さ」だけでなく、AIやIoTが日常生活に入り始めてきた。労働優位の生活も余儀なくされ、「人間の条件」が明らかに薄らいでいる。
思考することを止めるわけにはいかない。アーレントは文章の最後をカトーの次のようなことばで締める。思考についてである。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」