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2017年7月24日 (月)

火祭りと修験道

地域の伝統行事や祭りを調べていくと、何故、こんなことをやるのか、不明な点が多い。それなりに説明はされているが、ほとんどが五穀豊穣や家内安全といった一般的な解釈である。

専門家(学者)の論文などを見ても、事象の羅列やカテゴリー化、特色、伝播経路の類推などが多く、これも何故そんなことをやるのかといった疑問に答えているものは少ない。

宮崎は神話のふるさととして、地名や神社の由来として記紀神話を持ち出すことが多い。しかし、その神話を史実として信じている人はいないだろう。むしろ、記紀神話のなかに組み込まれた史実が一体何だったのかを知りたくなる。

儀礼や信仰は自然界に生きる人間として五感や情感に基づいていたはずで、それが説明できないと若い人たちからは忘れ去られ、祭りも廃れていき、新たな創造力は生まれてこないだろう。

以前、本多寿さんからの誘いもあり。朝日新聞宮崎地方版に「伝承の世界」として1年ほど連載したことがあった。こちらの想像力の赴くまま、気ままに書かせてもらったが、その後も、その興味は続いている。

夜神楽についはある程度整理できたので、今は都井の火祭り(柱松)について調べている。キーワードは「火と柱」であるが、いろいろ文献をあたるなかで修験者の関わりが強いことがわかってきた。

そこで先日、都井方面に探索に出かけた。修験者の痕跡を探す旅である。南那珂地方の神社を調べると神仏習合の色合いが濃い。真言密教系の修験者が神社と寺院を両方管轄しており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となったところも多いが、記録には残されている。

さらに修験者との関りで散見されるのが盲僧の動きである。以前、調べたことがあるが、全国からこの日向に盲僧が集まってきている。その総本山がかつて国富にあったり、聖地として鵜戸神宮があげられていたり、盲僧の動きも目が離せないのである。

専門的なことはさておき、今回、訪れたのは、串間市本城にある普門寺、都井岬の御崎神社、串間市大納にある瀧山神社、日南市外浦の日之御崎神社、栄松の行縢神社などである。

普門寺の丸山住職からは、火祭りの伝承に出てくる衛徳坊の石像らしきものが発見されたことや本城地区が湊としてポルトガル人などが寄港していたこと、永田地区に盲僧の墓地があることをお聞きした。

御崎神社は海岸の絶壁に鎮座し、ソテツの原生林に囲まれている。岬の突端にあることから海の彼方を来世、常世と思う観念などを抱いた。ここで修験者が火を燃やし、海難事故を防ぐ役割を果たしていなかっただろうかなどと考えてみた。

今回、特に印象に残ったのは瀧山神社である。ここは天然林が残り、植物群落保護林に指定されている。深山幽谷といった趣で、普段は訪れる参拝客も少ないのであろう。

かつては修験者の修行の場であり、観音堂、護摩堂、宿坊などがあったという。現在、石仏や石像とともに、朽ち果てた詰め所が残されていた。

日之御崎神社境内にはエビス様も祀られており、外浦地区を歩くと辻などで石仏を見かけた。ここでは石がご神体になっているという。石の信仰と修験道の関わりに興味を持った。

行縢神社も印象に残った。ここもエビス様や稲荷神社などを併設している。隣接して多数の石仏の安置してあるお堂がある。少し上ると墓地となっており、丸い石を置き花の手向けてある光景も見かけた。

民衆にとって山伏などの修験者の存在がいかに大きかったか、火を操り、柱を見据えて、石を祀る。生活のなかで祈祷や祈願を掌握し、民衆のこころのなかに入り込んでいった。そこから火祭りの原点を探ることができればと思う。

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2017年7月 7日 (金)

ノーマン・フィールド

Img_20170707_0001 ノーマン・フィールド著『天皇の逝く国で』(1994年みすず書房刊)を読んだ。

ずっしり重いものが胸に残った。と同時に、ほんのり温かいものが流れた。うまく整理できない。

この列島の歴史と日常生活のなかで感じる様々な差別や孤独、欺瞞、悲哀、信頼など、多方面の問題提起があり、生きる姿勢が問われる書でもあった。

解説より
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ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。高校を出てアメリカヘ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文化を講じる気鋭の学者である。

基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない〈戦後〉を生き、いまも〈太平洋の上空に宙づりの状態〉にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語。

彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そしてそこにさまざまな形で顕在化したあまたの問題に想いを巡らせた。

登場人物は、〈体制順応という常識〉に逆らったために、ある日突然〈ふつうの人〉でなくなってしまった三人―沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉職自衛隊員の夫の護国神杜合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長―と、もう一組、著者自身とその家族である。かれらの市民生活の日常にそって、問題は具体的に考えられる。
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Img_20170707_0002 関係者との会話やインタビューを聞き書きで記し、場面のイメージが鮮やかに刻印される。

進歩的知識人(エリート)の言動が、つい観念的、抽象的、理論的になり、それがどんなに正しくても、逆に人々の心は権力者の単純な紋切型の言葉に掬われていく。ポピュリズムやナショナリズムの広がりはそのことと無関係ではないだろう。

ノーマン・フィールドは、何より、市井の人々の日常生活や助け合いをとても大事にする。生まれや境遇に寄り添いながら、特に虐げられた、人間の尊厳を踏みにじられた人々の抗議に共感する姿勢がじわじわと伝わってくる。

象徴天皇制の名のもとに、日本国憲法の保障する国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という理念が、批判を許さないという同調圧力で踏みにじられている。地域や職場、学校でいくらでも見出せることである。その息苦しさはむしろ強まっている。

それぞれを一人にさせない、何気ない日常に楽しみを見出す、そのことが生きる上での価値とでもいうように、時にユーモアや詩的なことばを織り交ぜながら書き記す。そこから一歩を踏み出す勇気が生まれるのかもしれない。

取り上げられている3人の事例に、先の戦争の責任と謝罪、また被害者のなかの加害者性、加害者のなかの被害者意識など、自分の頭で考えることの大事さを改めて感じた。

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