火祭りと修験道
地域の伝統行事や祭りを調べていくと、何故、こんなことをやるのか、不明な点が多い。それなりに説明はされているが、ほとんどが五穀豊穣や家内安全といった一般的な解釈である。
専門家(学者)の論文などを見ても、事象の羅列やカテゴリー化、特色、伝播経路の類推などが多く、これも何故そんなことをやるのかといった疑問に答えているものは少ない。
宮崎は神話のふるさととして、地名や神社の由来として記紀神話を持ち出すことが多い。しかし、その神話を史実として信じている人はいないだろう。むしろ、記紀神話のなかに組み込まれた史実が一体何だったのかを知りたくなる。
儀礼や信仰は自然界に生きる人間として五感や情感に基づいていたはずで、それが説明できないと若い人たちからは忘れ去られ、祭りも廃れていき、新たな創造力は生まれてこないだろう。
以前、本多寿さんからの誘いもあり。朝日新聞宮崎地方版に「伝承の世界」として1年ほど連載したことがあった。こちらの想像力の赴くまま、気ままに書かせてもらったが、その後も、その興味は続いている。
夜神楽についはある程度整理できたので、今は都井の火祭り(柱松)について調べている。キーワードは「火と柱」であるが、いろいろ文献をあたるなかで修験者の関わりが強いことがわかってきた。
そこで先日、都井方面に探索に出かけた。修験者の痕跡を探す旅である。南那珂地方の神社を調べると神仏習合の色合いが濃い。真言密教系の修験者が神社と寺院を両方管轄しており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となったところも多いが、記録には残されている。
さらに修験者との関りで散見されるのが盲僧の動きである。以前、調べたことがあるが、全国からこの日向に盲僧が集まってきている。その総本山がかつて国富にあったり、聖地として鵜戸神宮があげられていたり、盲僧の動きも目が離せないのである。
専門的なことはさておき、今回、訪れたのは、串間市本城にある普門寺、都井岬の御崎神社、串間市大納にある瀧山神社、日南市外浦の日之御崎神社、栄松の行縢神社などである。
普門寺の丸山住職からは、火祭りの伝承に出てくる衛徳坊の石像らしきものが発見されたことや本城地区が湊としてポルトガル人などが寄港していたこと、永田地区に盲僧の墓地があることをお聞きした。
御崎神社は海岸の絶壁に鎮座し、ソテツの原生林に囲まれている。岬の突端にあることから海の彼方を来世、常世と思う観念などを抱いた。ここで修験者が火を燃やし、海難事故を防ぐ役割を果たしていなかっただろうかなどと考えてみた。
今回、特に印象に残ったのは瀧山神社である。ここは天然林が残り、植物群落保護林に指定されている。深山幽谷といった趣で、普段は訪れる参拝客も少ないのであろう。
かつては修験者の修行の場であり、観音堂、護摩堂、宿坊などがあったという。現在、石仏や石像とともに、朽ち果てた詰め所が残されていた。
日之御崎神社境内にはエビス様も祀られており、外浦地区を歩くと辻などで石仏を見かけた。ここでは石がご神体になっているという。石の信仰と修験道の関わりに興味を持った。
行縢神社も印象に残った。ここもエビス様や稲荷神社などを併設している。隣接して多数の石仏の安置してあるお堂がある。少し上ると墓地となっており、丸い石を置き花の手向けてある光景も見かけた。
民衆にとって山伏などの修験者の存在がいかに大きかったか、火を操り、柱を見据えて、石を祀る。生活のなかで祈祷や祈願を掌握し、民衆のこころのなかに入り込んでいった。そこから火祭りの原点を探ることができればと思う。
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