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2021年1月24日 (日)

本多寿詩集『日の変幻』新聞書評

昨年暮れ、本多寿さんが『風の巣』に続いて、『日の変幻』を上梓されました。今回も依頼されて宮崎日日新聞紙上に書評を寄稿しました。その内容です。

 

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これは自然との対話から生まれた詩集である。

著者は宮崎市郊外で「鳥の囀りと風の音でめざめ/虫の声を聴きながら眠る」生活をしている。目を凝らして観ると自然界は日々変化する。「日が輝きはじめると/枝々の木の芽はたちまち芽吹き/みどりの若葉がしげった」。水の中のヤゴがトンボになり、地中の虫がセミになるように、昨日あったものが今日はない。

変化する世界は、草花や昆虫、樹木、野鳥から、村落、災害、地球、天体にまで及ぶ。そこに生起する多くの誕生と死。死を意識して生が豊かになることを静かに語っている。それでもなお襲ってくる哀しさ寂しさのなかで「空に問いつづけている/空は なぜ/こんなにも美しいのか」と。大いなるものへの問いかけに終わりはない。答えは見つからないまま「怒りに躓かず 寂しさに溺れないよう/草木に倣って生きる」しかないのだ。

日々の生活のなかでふり向けば、もの言わぬものたちが寄りそっている。「草も 木も 花も寄り添い/寄りそわれてきたもの/きょう、それを/愛と呼んでみた」。共に生きる草花や樹木に改めて勇気づけられるのである。

その認識は「犬が近づけば犬の影と/山が近づけば山の影と/わたしの影がひとつになる// あゝ 皆 おなじなのだ//わたしたち/姿かたちは 皆 異なっているが/おなじ光を与えられている/おなじ影を与えられている」と広がる。さらに「日とともに あなたをめぐる/日とともにわたしをめぐる//略//日のあるかぎり/死ののちもなお//あなたから わたしへ/わたしから あなたへ」と。命の循環で輝いている自然。そこに死を前にしての安らぎも生まれてくる。

私はこの詩集を答えの出ない事態に耐える力として、緩和ケア、グリーフ・ケアとして、さらにアニミズムと純粋詩の昇華として読んだ。

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本多寿詩集『風の巣』寸評

 昨年、第53回日本詩人クラブ賞に本多寿詩集『風の巣』が選ばれました。その贈呈式に用意した紹介文です。結局、この贈呈式は新型ウィルス感染拡大により開催されませんでした。


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本多寿さんとは若い時からのお付き合いです。私はいつも本多さんのことを寿さんと呼んでいます。もう亡くなられましたがお兄さんの本多利通さんも詩を書かれていて、両方にお付き合いがあったからです。

寿さんとは、アルコールが入るとすごくいい話になるんですね。ところが肝心の中身はいつも忘れてしまいます。ボイスレコーダーを入れておけば良かったと思うのですが、今日はそのかすかな記憶をもとに本多寿さんを紹介したいと思います。

 

寿さんは1992年に詩集「果樹園」で第42回H氏賞を受賞しています。そのタイトルが示すように、蜜柑園の一隅に居を構え、身近に樹木や草花、野鳥などと接しながら生活されています。いわばそこが詩のバックボーンになっています。その静かな場所から時代を見つめ、世界をとらえようとしています。

寿さんは「野草や昆虫がリトマス試験紙だ」といいます。人間の言動をもの言わぬ野草や昆虫にあててみるのです。そうすると現代や人間の傲慢さがより鮮明に映るのです。当然、そこから厳しい批評や批判が生まれます。

その感覚を培ったのは少年時代だと思います。寿さんは「よく山学校をしていた」といいます。学校をさぼって野山に分け入り、風の音や雲の動き、樹木や草花、昆虫、野鳥など、それらとたっぷり戯れている。言葉を使わない世界の豊かさです。それは単なる擬人化した自然ではありません。だからリトマス試験紙になる。

それはアニミズム体験といえるかもしれません。寿さんは野草の写真をよく撮りますが、その影に焦点を合わせることが多い。陰に潜んでいる何かに感応しているのです。影のなかに実在感を求めているような気がします。

『風の巣』というタイトルもそうですが、使われる言葉はそんなに難しくないのに、説明しようとするととても難しい。幻想とか、幻影とか、想像力を働かせないと見えてこない世界だからです。深遠な魂と交感するディープ・エコロジーの世界だといってもいいでしょう。

ただ、作品には「ぼく」とか「わたし」ということばが出てきます。アニミズム体験から離れてしまった自我です。とても内省的で戸惑いがあります。いわば有限と無限の間で苦しんでいる。そして「ゆらぎ」や「ざわめき」といったことばが出てきます。風をイメージさせます。風が有限と無限の境を解き、 変容をもたらす象徴として描かれています。そこに祈りも芽生えます。寿さんはアニミズムから学んだ言葉を背景に、有限という自我の痛みを『風の巣』に表現したのではと感じています。

  

そこで、詩の表現はどこから学んだのだろうかということですが、お兄さんの利通さんも優れた詩人でした。その利通さんの住む延岡にはモダニズムの詩人渡辺修三がいました。また、中原中也と親しかった高森文夫もいました。

そこに利通さんはじめ、みえのふみあき、杉谷昭人、田中詮三、金丸桝一などの詩人たちが集まってきます。寿さんは詩を書き始めた頃、彼らのお抱え運転者だったそうです。当然、彼らから様々な影響を受けることになります。

なかでも渡辺修三、みえのふみあきに影響を受けたということです。ふたりに共通するのは、一言でいえば「純粋詩」です。純粋に言葉のみで構築される美しい世界、それが詩なんだというとらえ方です。その詩を説明しようとすると美しさが消えてしまうのです。風景が美しいのではなく、言葉が美しいのだということなのです。

ですから、散文的な論理性や通時性は影を潜め、非論理性、共時性が前面に出てきます。意味連関のない二つの事象を組み合わせ、その衝突で言葉を覚醒させ、美しい情景を創作するわけです。この詩集も変奏曲風のスケッチが特徴といえるでしょう。

純粋詩の詩人たちは経験主義をもっとも嫌います。「亡くなった詩人たちがいつも肩越しに覗き込んでいるんだよ」と寿さんはいいます。ただ体験や記憶、日々の情感はどうしても付きまといます。それらをどうやって純粋詩に変換したのだろうか。

『風の巣』には、感情表現が意外に多く出てきます。それも痛みをともなっています。天空や樹木の変容、野に広がる死と生成、非在や無窮を描きながら、何かしら痛みが伝わってきます。だから美しい。でもよくわかりません。

寿さんはシンボルスカの「わからないということが命綱」という言葉をよく口にします。安易に答えを出さない。問いに問いを重ねる。もやもやしたわからなさを受け入れる。そんなことが大事ではないのか。痛みとわからなさをともなった美しさがこの『風の巣』だということです。

 

そして、アニミズムと純粋詩をかけあわせることで、経験主義を超える深い実存論「ディープ・リアリズム」を描こうとしたのではないか。これはまたゆっくり飲みながら寿さんと話してみたいテーマです。

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