2017年7月24日 (月)

火祭りと修験道

地域の伝統行事や祭りを調べていくと、何故、こんなことをやるのか、不明な点が多い。それなりに説明はされているが、ほとんどが五穀豊穣や家内安全といった一般的な解釈である。

専門家(学者)の論文などを見ても、事象の羅列やカテゴリー化、特色、伝播経路の類推などが多く、これも何故そんなことをやるのかといった疑問に答えているものは少ない。

宮崎は神話のふるさととして、地名や神社の由来として記紀神話を持ち出すことが多い。しかし、その神話を史実として信じている人はいないだろう。むしろ、記紀神話のなかに組み込まれた史実が一体何だったのかを知りたくなる。

儀礼や信仰は自然界に生きる人間として五感や情感に基づいていたはずで、それが説明できないと若い人たちからは忘れ去られ、祭りも廃れていき、新たな創造力は生まれてこないだろう。

以前、本多寿さんからの誘いもあり。朝日新聞宮崎地方版に「伝承の世界」として1年ほど連載したことがあった。こちらの想像力の赴くまま、気ままに書かせてもらったが、その後も、その興味は続いている。

夜神楽についはある程度整理できたので、今は都井の火祭り(柱松)について調べている。キーワードは「火と柱」であるが、いろいろ文献をあたるなかで修験者の関わりが強いことがわかってきた。

そこで先日、都井方面に探索に出かけた。修験者の痕跡を探す旅である。南那珂地方の神社を調べると神仏習合の色合いが濃い。真言密教系の修験者が神社と寺院を両方管轄しており、明治期の廃仏毀釈により廃寺となったところも多いが、記録には残されている。

さらに修験者との関りで散見されるのが盲僧の動きである。以前、調べたことがあるが、全国からこの日向に盲僧が集まってきている。その総本山がかつて国富にあったり、聖地として鵜戸神宮があげられていたり、盲僧の動きも目が離せないのである。

専門的なことはさておき、今回、訪れたのは、串間市本城にある普門寺、都井岬の御崎神社、串間市大納にある瀧山神社、日南市外浦の日之御崎神社、栄松の行縢神社などである。

普門寺の丸山住職からは、火祭りの伝承に出てくる衛徳坊の石像らしきものが発見されたことや本城地区が湊としてポルトガル人などが寄港していたこと、永田地区に盲僧の墓地があることをお聞きした。

御崎神社は海岸の絶壁に鎮座し、ソテツの原生林に囲まれている。岬の突端にあることから海の彼方を来世、常世と思う観念などを抱いた。ここで修験者が火を燃やし、海難事故を防ぐ役割を果たしていなかっただろうかなどと考えてみた。

今回、特に印象に残ったのは瀧山神社である。ここは天然林が残り、植物群落保護林に指定されている。深山幽谷といった趣で、普段は訪れる参拝客も少ないのであろう。

かつては修験者の修行の場であり、観音堂、護摩堂、宿坊などがあったという。現在、石仏や石像とともに、朽ち果てた詰め所が残されていた。

日之御崎神社境内にはエビス様も祀られており、外浦地区を歩くと辻などで石仏を見かけた。ここでは石がご神体になっているという。石の信仰と修験道の関わりに興味を持った。

行縢神社も印象に残った。ここもエビス様や稲荷神社などを併設している。隣接して多数の石仏の安置してあるお堂がある。少し上ると墓地となっており、丸い石を置き花の手向けてある光景も見かけた。

民衆にとって山伏などの修験者の存在がいかに大きかったか、火を操り、柱を見据えて、石を祀る。生活のなかで祈祷や祈願を掌握し、民衆のこころのなかに入り込んでいった。そこから火祭りの原点を探ることができればと思う。

Img_8591 Img_8593 Img_8617 Img_8615 Img_8630 Img_8631_2 Img_8652 Img_8654_2

2017年7月 7日 (金)

ノーマン・フィールド

Img_20170707_0001 ノーマン・フィールド著『天皇の逝く国で』(1994年みすず書房刊)を読んだ。

ずっしり重いものが胸に残った。と同時に、ほんのり温かいものが流れた。うまく整理できない。

この列島の歴史と日常生活のなかで感じる様々な差別や孤独、欺瞞、悲哀、信頼など、多方面の問題提起があり、生きる姿勢が問われる書でもあった。

解説より
-------------------------
ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。高校を出てアメリカヘ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文化を講じる気鋭の学者である。

基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない〈戦後〉を生き、いまも〈太平洋の上空に宙づりの状態〉にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語。

彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そしてそこにさまざまな形で顕在化したあまたの問題に想いを巡らせた。

登場人物は、〈体制順応という常識〉に逆らったために、ある日突然〈ふつうの人〉でなくなってしまった三人―沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉職自衛隊員の夫の護国神杜合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長―と、もう一組、著者自身とその家族である。かれらの市民生活の日常にそって、問題は具体的に考えられる。
-------------------------

Img_20170707_0002 関係者との会話やインタビューを聞き書きで記し、場面のイメージが鮮やかに刻印される。

進歩的知識人(エリート)の言動が、つい観念的、抽象的、理論的になり、それがどんなに正しくても、逆に人々の心は権力者の単純な紋切型の言葉に掬われていく。ポピュリズムやナショナリズムの広がりはそのことと無関係ではないだろう。

ノーマン・フィールドは、何より、市井の人々の日常生活や助け合いをとても大事にする。生まれや境遇に寄り添いながら、特に虐げられた、人間の尊厳を踏みにじられた人々の抗議に共感する姿勢がじわじわと伝わってくる。

象徴天皇制の名のもとに、日本国憲法の保障する国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という理念が、批判を許さないという同調圧力で踏みにじられている。地域や職場、学校でいくらでも見出せることである。その息苦しさはむしろ強まっている。

それぞれを一人にさせない、何気ない日常に楽しみを見出す、そのことが生きる上での価値とでもいうように、時にユーモアや詩的なことばを織り交ぜながら書き記す。そこから一歩を踏み出す勇気が生まれるのかもしれない。

取り上げられている3人の事例に、先の戦争の責任と謝罪、また被害者のなかの加害者性、加害者のなかの被害者意識など、自分の頭で考えることの大事さを改めて感じた。

2017年6月26日 (月)

消えゆく学会

6月25日(日)に平成29年度の宮崎民俗学会総会があった。

大学時代に民俗研究サークルに所属していたこともあって、民間伝承への興味関心はずっと持ち続けてきた。県内を巡回する秋の宿泊研修会など、地元ならではの講演や接待があり、できるだけ日程を調整して参加したきた。

0001 ただ、私は専門家ではない。さまざまな興味関心はあっても学術的に研究する知識も時間も環境も持ち合わせていない。ただ、毎年発行される機関誌「みやざき民俗」だけは楽しみにしている。県内の最新の調査記録が掲載されているからである。

その宮崎民俗研究会も存続の危機にあるという。少子高齢化による会員の減少、価値観の変化による民俗事象への関心の乏しさ、印刷費の高騰などで、実質、活動それ自体が抑制されつつある。

これは他の歴史研究などを行う団体も同じだという。すでに休会にする団体も出てきた。補助金や助成金申請、機関誌への広告依頼など、打つべき手は打っているというがなかなか改善策は見出せないでいる。

加えて、民俗学が調査対象とする地域の祭りなども存続の危機にある。後継者不足、資金難、指導者の高齢化など、地区の行事なども消えつつある。

これは地域おこしも同様である。総会ではさまざまな意見が出された。ただ、決定打はなかなか見つからない。

柳田國男は経世済民としての民俗学を提唱していた。宮本常一も全国をくまなく歩きながら、地場産業の振興に協力している。今和次郎も考現学を通して、街場の風景から新たな価値を見出そうとしてきた。

単なるディレッタントに終始している限り、消え去るのは当然だろう。

今、現実的に何が問題になっているのか。民俗学の知見を活かせる分野は限りなく広いと考えている。スローフード(伝統食)から、災害文化(昔話や地名)、子育て(産育)、障がい者への関わり(異神)、ビッグデータ(考現学)まで、視点や関心の持ち方で、いくらでも提言できる豊富な内容を持っている。

それらをテーマに、広く県民に呼び掛けシンポジウムを開けばよい。助成金申請や協賛金依頼を行えばよい。そのような発言もしたが、要は現実的な問題に対する民俗学の関わり方次第であろう。

Hasu 総会の行われたみやざき歴史文化館の池は蓮の花が満開であった。

2017年6月25日 (日)

記憶と記録

0001 宮崎公立大学公開講座を聞きに行った。

宮崎における「災害文化」の醸成ー外所地震と口蹄疫を事例にーと題して、黒田勇関西大学教授の話であった。

民間伝承などの地域文化に関心を持ってきたことと、以前、宮崎公立大学と連携して「高校生による聞き書き地域防災」という事業をやったこともあって興味を抱いた。


スロー放送
この言葉を私は初めて知った。

氏は「産地を特定した原料で地元のものは地元で調理し、料理して楽しむ、ただ食べるだけではなく、人間の健康、環境、そして地域の文化を総合したものとして食文化を捉えなおしていこうというスローフード運動」にヒントを得て、それをメディ(放送)に当てはめたという。

「放送が培ってきた文化がメディア・ビジネスのグローバル化によって、さらに加速するデジタル放送ビジネスによってまったく変えられてしまうことに対する抵抗」でもあり、「ローカルのアイデンティティや文化風土に根ざした放送、産地のはっきりした放送、つまり、送り手と受け手の顔が見える地域に根差す『地産地消』のような放送」をイメージしているという。

宮崎県の県内就職率は全国最下位である。この話を聞きながら、その要因として、氏の言われる「私とあなた、そして、私たちの空間が、「われわれ=東京」のものとして形成され、今やそれはごく自然な視聴者全体を巻き込む視線であり、空間を構築するに至った」ことと無縁ではないと思われた。

新聞記事に記者署名が増えてきている。これからはラジオ、テレビでも、誰が取材し、報道しているかを意識する時代が来ていると思った。

「地域社会における民間放送局の歴史と課題」黒田勇(参照)


外部記憶装置
これも新しい視点だった。

事件、事故の「風化」が言われる。私たちはどのように体験(記憶)を記録し、繰り返し呼び戻す機会をもつのかという課題である。

氏はスロー放送の視点から口蹄疫と外所地震を取り上げる。当日は地元メディもいくつか参加していた。関西では阪神淡路大震災を機に作られた「ネットワーク117」という番組を今も放送しているという。

死んだ人より、生き残って苦しんでいる人々の方が圧倒的に多いという事に思いを馳せ、悲しみを共有し、和らげることを切り口に続けられているという。

繰り返し報道することで、記憶を呼び戻し、防災に活かしているのである。被災をテーマにしたドキュメンタリー映画を繰り返し放映することもそのひとつである。メディアの役割である。

神戸ルミナリエで歌われる「しあわせ運べるように」という歌は、歌い続けられることで体験が語り継がれている。歌による記憶である。

私はここで隠れキリシタンで歌い続けられてきたオラショのことを思った。それはすでに数百年にも及ぶ。外所地震(1662年10月31日)の供養碑は50年おきに石碑を建てる。全国的に珍しく現在は7基目である。これも石による記憶である。

以前、取り組んだ「高校生による聞き書き地域防災」は聞き書きの記録化であったが、民間伝承(カッパ淵など)や地名(クエなど)なども記憶装置のひとつであろう。


地域アイデンティティー
この言葉も新鮮であった。

地域おこしとか、地域の特産品とかはよく言われる。しかし、これらは「地域アイデンティティー」としてとらえることができる。

災害文化も負の遺産として、地域アイデンティティーになり得る。口蹄疫で全県下に敷かれた消毒マットは、宮崎県の清潔さの指標でもあり、それだけ食の安心、安全に気を配っていることの意志表示になっているという。

しかも、これを資産として活かし、地域振興としてのビジネスにもつなげられるという。負の遺産を正の資産として活かす方法を「地域アイデンティティー」という視点は持っている。

今や日本の津波を防ぐメカニズムは世界の目標になっている。そのノウハウに世界は注目するのである。

「地域アイデンティティー」をどのように意識していくのか。顔の見える関係のなかで、メディアも、コミュニティも、食も、そこで生活することが楽しく思えるような「まなざし」を探っていかなければならないと思った。

2017年6月22日 (木)

ハンナ・アーレント

かつて詩誌「視力」5号(2014.4.4)のエッセー補助線にハンナ・アーレントのことを書いたことがある。今、改めて彼女のことが思い返される。

---------------------------------------

少しちじれ毛の髪、対象を見つめる黒い瞳、スジの通った鼻、薄めの唇、首を傾げ顔に手をやる癖のあるポーズ、若い頃のハンナ・アーレントは思慮的であり、とても魅力的だ。ドイツ系ユダヤ人で、ヘビースモーカーだったという。

「嫌いな人の真実よりも、好きな人のうそがいい」といって、最後までハイデガーの言葉を信じ続けようとしていた。彼の主著『存在と時間』(1927年)は、ハーレントと恋愛関係にあるときに著されている。1931年頃、ハイデガーはナチに入党しヒットラーを讃える演説をしている。それにもかかわらず、ハーレントはかつての愛人であったハイデガーの純真さや弱さを理解しようと努めている。

だからこそであったか。ナチス弾劾裁判(1961年)で、親衛隊長であったアイヒマンの非人間性を批難するのではなく、なぜ悲劇が起こされたのかについて関心が向かう。
裁判でアイヒマンは応える。「私は命令に従っただけです。殺害するかは命令次第でした」

これを聞いてアーレントは考える。「アイヒマンは反ユダヤではない。ただの役人に過ぎなかった。彼が二十世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ。本当の悪は平凡な人間が行う」として、これをアーレントは『悪の凡庸さ』と名付けた。

アドルフ・アイヒマンは高校中退後、1932年ナチス親衛隊入隊。1935年ユダヤ人担当課に配属され、ユダヤ人追放の執行者として頭角を現す。終戦までユダヤ人列車移送の最高責任者を務めた。

「上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまう。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう」(映画「ハンナ・アーレント」解説より)

今、次なるアイヒマンが続々と生まれてきているように思えるのは錯覚だろうか。

Hannah_2 『人間の条件』(1958年)で、ハンナ・アーレントはその思考放棄、思考欠如を危惧していた。その大きな要因に人工衛星と原子爆発の発明を上げている。それは汚れた地球からの逃避であり、その地球の爆破と映ったからである。

「地球の提供する条件とは根本的に異なった人口の条件のもとで生きなければならなくなったとき、労働も仕事も活動も、そして実際私たちが理解しているような思考さえ、もはや意味をもたなくなるだろう」という。

この地球に生きていることを思考の原点に置いていた。近代科学の知識と思考には懐疑的でならざるを得なかった。アーレントには、地球上に住むことの意味が希薄になり、「人びとの間にあることを止める」とき、知識と思考が永遠に分離されるように見えたのである。

彼女のことばに「与えられたままの人間存在というのは、どこからかタダで貰った贈り物」というのがある。今、その贈り物を他のものと交換しようとしているというのである。

「私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工的機械が実際に必要となるだろう。・・・それがどれほど恐るべきものであるにしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるであろう」と書いている。

彼女の予言は当たったように思える。最先端技術を駆使するロボット工学、あるいは原子力発電、遺伝子操作などは、少なくとも私の理解の範疇をはるかに超えている。「思考なき被造物」、それが、今、人間の代名詞になろうとしている。

人間は「死すべきもの」だからこそ、物語を作れるのである。永遠、不死に物語は生まれない。むしろ、永遠、不死の宇宙に向き合うなかで、唯一、死すべき者だからこそ、人間の任務と偉大さがあるというのである。人間の条件とは何か。改めて再考を促される。

--------------------------------------

「悪の凡庸さ」だけでなく、AIやIoTが日常生活に入り始めてきた。労働優位の生活も余儀なくされ、「人間の条件」が明らかに薄らいでいる。

思考することを止めるわけにはいかない。アーレントは文章の最後をカトーの次のようなことばで締める。思考についてである。「なにもしないときこそ最も活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りでない」

2013年3月 7日 (木)

授賞式

Img_5801_2本日、宮日出版文化賞の受賞式が宮日会館であった。

楽しみは何より、今回、同時受賞した人たちに会える喜びであった。というのは、今回の拙著は柳田國男の椎葉訪問を問うことから始まっており、そのヒントが他の二つの著作のなかにあると思ったからである。

近代化が進むなかで西欧に目が向いていた時期、なぜ、柳田は奥日向の椎葉を訪ねたのか疑問に思っていた。

その謎は未だに解決されていないが、今回受賞した本は拙著も含めてたまたま民俗に関係する著作であり、銀鏡、西米良、椎葉と地域の営みを題材にしたものであった。

他の書物は山村での生活を人の結びつきや自然との共生から描いており、そのなかに先の柳田の椎葉訪問の意味があるように感じたのである。

僻村に住み、派手やかな都市生活とはかけ離れた地域であるが、その豊かな文化や人と自然との結びつきに人の幸せを感じさせる内容がいっぱい詰まっている。これは一体何だろうということである。

濱砂武昭さんは84歳だがその透きとおるような顔の艶に何か神々しいものを感じた。人の良い、話し好きな世話人といった風情であったが、『銀鏡神楽-日向山地の生活志』を読むと人々が自然とどう向き合い暮らしてきたかが、儀式や生活、風俗のなかに記されていた。人の謙虚さが胸に染みいってくる。

小河孝浩さんは51歳の写真家だが、10年前に故郷の西米良に帰ってきたという。そこで38組の夫婦の写真を撮って一冊にまとめられた。しかし、他所から嫁いできた妻たちが主人公なのだとそうだ。因習の残る山里で苦労も多かったはずであるが、何がその苦労を癒してくれたのか。何気ないことばや茶飲み、自然の風景であったかもしれない。

Miyanichi_2柳田の「やさしい束縛」ということばがまだ私のなかで響いている。柳田が追い求めていたものや問題意識が今回受賞した各著作間にも響き渡っているように思う。

そんな思いがあったからこそ、今回、お二方にお会いできるのが楽しみであった。名刺交換させていただいて、共通の思いを深くしたところである。これから銀鏡、西米良通いが増えるかもしれない。

昨年facebookに移行中と宣言したが、やはりブログの必要性も感じており、同時並行的に使っていこうと思う。先日の新聞記事と本日の記念写真を掲載します。

2013年2月21日 (木)

宮日出版文化賞

拙著『哀調の旋律ー柳田國男の世界』が第23回宮日出版文化賞(宮崎日々新聞社主催)を受賞することになった。

この賞との関わりは18年前に遡る。当時、編集委員として加わった『本多利通全詩集』が第4回の同賞を受賞している。その受賞をきっかけに、編集委員を中心に、本多利通を偲ぶ「卯の花忌」が企画され、今日まで、県北を中心にした近現代詩の懇談会が続いている。

本多利通氏には延岡時代に懇意にしていただき、彼を中心に、若い仲間と詩や文学について語る場を持てたことはやはり大きな励みであった。 利通氏との交流がなければ、今日まで書き続けていたかどうかわからない。その意味で今回の受賞はまず本多利通氏に報告したいと思った。

01_2 と同時に、当時、一緒に同人誌を作った仲間、特に全詩集の編集委員にも名を連ねた牧野正史(享年49歳)とともに喜びたいと思った。(写真は『渡辺修三著作集』の取材中、左から、本多利通、私、牧野陽子、牧野正史-当時、佐藤姓-敬称略、以下同様)

この著作のなかでは「遠野物語考」に最も時間を割いた。それを文芸誌「しゃりんばい」に投稿し、真っ先に取り上げてくれたのが、当時、宮崎日々新聞の詩の選者であった金丸枡一氏(故人)であった。

02 そして当時の文芸欄を担当していたみえのふみあき氏がさら詳しく論じ、作品の意味づけをしてもらった。 このお二方の激励と批評がなければ、内容をさらに深めることができたかどうか心許ない。ともに忘れることのできないお二方である。(写真は、左からみえのふみあき、本多寿、私)

宮崎県民俗学会の機関誌「みやざき民俗」に「柳田國男の紀行文」を載せてもらったが、会長であった山口保明氏とは三度ほど会って話す機会があった。氏が俳人でもあることが非常に心強かった。故人となられたが、彼にもお礼と報告をしたい。

著書として編集してもらったのが、高岡に居住して以来、行き来をしている本多企画の本多寿氏である。利通氏の弟に当たられるが、彼の進言により、特に柳田國男の詩人的側面を加えたことが、この本の内容を広がりのあるものにしたと思う。もちろん本作りのプロで絵心もあるため、本の装丁もお願いした。今回の著作は中身よりこの装丁とタイトルがよく話題となった。

03 宮日紙上では、東京の柴田三吉氏に書評を書いていただいた。柴田氏は詩人でもあり、出版社も経営されている。氏とは来宮の際、何度か飲んだことがある。書評には定評があり、その依頼を快く引き受けていただいた。この書評も非常にわかりやすく、新たな視点で整理され、好評であった。(写真は、左から柴田三吉、私、三尾和子、本多寿)その他、杉谷昭人氏にも文芸欄で取り上げてもらった。

今回の拙著は日頃から詩誌や詩集などの交換をしている詩人を中心に送らせてもらった。その感想には、本人以上に鋭い考察や新たな視点などが返ってきていた。そして人により、印象に残った箇所が違っており、そのバラエティが面白かった。

「遠野物語」は多くの人に論じられているが、それだけ物語の豊かさが感じられ、その解釈や構造分析は飽きない魅力を持っている。伝承の世界に言語論や精神分析学、構造主義などの視点をあてることで、私たちの内部に眠っている感情やメタ言語を呼び戻そうと考えた。

「柳田國男の紀行文」については、旅人としての柳田に焦点をあて、旅の持つ漂泊や放浪に人生の生き様を重ねてみた。西日本新聞紙上ではこのことが評価されていた。「哀調の旋律」という本のタイトルもここから取ったものである。

「薄暮の詩人」については、島崎藤村との比較で近代の抒情詩や自然主義文学をとらえ直してみたのだが、引用も多く、少し力不足を感じた。ただ、詩人としての柳田國男や反自然主義文学の視点については意外に理解者が少なく、そのことが反響の大きさにもつながったように思う。

柳田國男と宮崎との関係でいえば、やはり民俗学発祥の地としての椎葉がエポックになりやすい。夕刊デイリー新聞では拙著のなかで「椎葉探訪」について触れてもらった。ただ、未だに柳田の椎葉体験の真の意味はわからない。その意味は何かとてつもなく大きいことのように思われるが、さらに分析する必要があろう。

それだけ『後狩詞記』や柳田の椎葉訪問の目的は研究され続ける必要がある。例えば、柳田が驚いたように、狩の作法や組織のあり方に現代を見直す視点があるように思われる。

それらを地元にいて研究する雰囲気や環境を作っていく必要があるのかもしれない。そのきっかけに拙著がいくらかでもお役に立てればと思う。

2013年1月13日 (日)

ふたつの詩集

現代詩は難しいといわれる。
しかし、詩を読むことは世界を読むことと同じだと思っている。
この世の中は、そう分かりやすいことばかりではない。
詩が滅んだら、世界も滅ぶだろう。
昨年末に仲間が詩集を出した。
『小景有情』木下貴志男
『海の憂鬱』佐藤純一郎
木下は63歳、佐藤は28歳である。

Img_20130113_0002_4
そのふたりが宮崎の「日差し」をどうどらえているか。
・・・
田の中に 生まれたばかりの一匹の蝌蚪
ものうげにからだをくねらせているのは
やわらかな日差しのせいだ
(注)蝌蚪:オタマジャクシ         
         木下「風 棚田を渡る」より
・・・
━もはや太陽さえも その温和な光を憩わせることのない
虚ろな空洞をいくつも持った亡骸となった私━
         佐藤「牧歌(夜明けの埋葬)」より
木下は「ものうげ」が「やわらかい日差しのせいだ」といい、佐藤は「温和な光」が「虚ろな空洞」をつくっているという。
世代の違いこそあれ、「宮崎の明るい太陽」を肯定的にはとらえていない。
ふたりの表現を通しても、一般に流布している宣伝文句とのズレが意識できる。
その重層性こそが豊かな地域環境を作っていくと思っている。
やはり、詩は読まれなければならない。

2011年11月23日 (水)

開かれた世界

Img_5074本多寿さんから「郁朝展、やっているから行かないか」との誘いで、木城えほんの郷に「黒木郁朝の世界展」を観に行った。そろそろ紅葉もしているだろうと、えほんの郷の風景や、もちろん作品展も、行中の会話も楽しみであった。

例年、暖冬のせいか、あるいは霜降が少ないせいか、最近では紅葉しないまま落葉する樹木が多い。夏からそのまま冬になるような、そんな感じである。案の定、今年もそんな光景であった。

郁朝氏の版画作品はいつ見ても楽しい。こころ落ち着く感じがする。今回も野の花を題材にしたものが多かったが、見ていて飽きさせない。よく観ると、自然や人物、宇宙、生活用具など、実に繊細に描かれている。生命や人の優しさ、生きる楽しさなどが小さな画面に展開されている。

若い頃に比べて、さらに自己主張の強さが影を潜め、色彩に深みと奥行きが出てきた印象である。本人は「点から線に意識が動いている」というようなことを語っていた。

4年前も書いているが、白を基調とした作品に秀逸なものを感じた。重ね塗りの効用なのか、年輪を重ねてきて、淡い色彩のなかに様々な陰影が隠されている。観る者の想像力にゆだねる、枠にはめ込まない自由さが感じられた。

Img_5075
日常、見慣れた自然のなかに、ふと、新たな世界や奥深さを感じることがあるという。ありふれた光景のなかに、ふと、浮上してくる光景もある。それが何なのかはわからないが、切り取られた世界のなかに、静かに立ち上がってくる躍動感みたいなものが感じられる。

私たちは、目立つ色彩や語彙で表現される作品に目を奪われがちだが、本物は、意外に目立たない日常のなかに隠れているのではないか。「目立つ作品には閉じられた世界が多い」ということも話題にあがった。「開かれている世界」とはどういう世界なのだろう。

同様のことは、リアリティを感じる作品と作品のリアルさとは異なるということにもつながっていく。絵画や詩の話から、俳句や漢詩、飲み方の話まで広がって、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 

2011年11月17日 (木)

失われたトポス

Kai1_2甲斐龍二作品展「人間と空間」が県立美術館で行われた。

40年の軌跡として、27点ほどの作品が展示され、彼の主要な作品が概観できた。これらのなかでは1970年代後半に制作された「ありふれた光景」シリーズが、やはり印象深かった。

樹木や森、空のなかに人工的な石組みや石畳が敷かれ、あるいは自然の風景が四角に切り取られ、宙に浮いている。これは明らかに風景ではなく、光景(シーン)なのだ。

そこに描かれる事物は具象なのだが、現実にある風景ではない。樹木や石塊、球体などを精密に描き出しているが、その印象はどこか寂寥と透明感が漂っている。

1970年代後半といえば、オイルショックによりバブルがはじけ、世界全体が経済不況に陥った時期である。豊かさの後の飢餓感といったらよいであろうか。「人間と空間」と銘打たれながら、人物はほとんど描かれていない。

空間のなかに人間の居場所がないのだ。見慣れた風景さえもがどこかよそよそしさを感じさせ、冷たく乾いた寂しさを湛えている。人工が自然を凌駕し、本来、自然体であるべき人間の領域が失われてしまっている。

この「ありふれた光景」はいわば逆説的なタイトルとなっている。現実にはどこにもない風景となっているのだ。その寂寞感や悲哀感が、樹木や空、石畳のなかに、抒情として浮かび上がってくる。色彩は原色に近く、透き通っている。ただ、その後の彼は「DIMENSION」シリーズを経て、「断片」シリーズに至る過程で、さらに飢餓意識を増していったような気がする。

Kai2_2ある意味、かつてあった抒情を切り捨てていったように思われる。最近の「蓮華」シリーズでは、蓮の華が直立し、ある種、宗教的な気配も漂わせるが、出口の見えない世界で、苦悩しているようにさえ見える。

ただ、空だけは相変わらず青い。こだわり続ける空の空間に、彼の特徴があるのかもしれない。空のなかに消え入ってしまいたいという願望を感じた。現実に居場所を喪失した以上、空を見上げるしかないのだ。

しかし、あくまでこの世を捨てきれないでいる。そのこだわりも、また、この「蓮華」シリーズには感じた。そこに新たな抒情も浮上してくるのではないか。それが、彼の創作意欲の一端になっているような気がするのである。

より以前の記事一覧