2009年7月22日 (水)

夏祭り

Img_4007_3ちょうど梅雨明けした 19日(日)は粟野神社の夏祭りであった。

例年より一週間ほど早い。今年は天候にも恵まれ、早期水稲も刈り入れ時となっていた。

水田の稲穂も垂れ、さながら秋の収穫祭といった感じである。田の神もこころなしか豊作を喜んでいるように見えた。

いつものように獅子舞は高校生が担当するが、かつて鼻たれ小僧だった子どもたちがいつのまにか青年になり、獅子を舞うようになる。

Img_4008_4 久しぶりに見る彼らの成長した姿に驚く。時の流れを思ってしまう。

当日は好天にも恵まれ、アスファルト道の上は40度を越す暑さだったと思うが、汗だくになりながら、舞ってい た。

恐らく、この田園の風景や祭の情景は、かつて幾度となく繰り返されてきたものだろう。

神輿も地区の家々を巡り、かつてと同じように家内安全、護国豊穣を祈願してまわった。

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夏空に白い雲が浮かび、稲穂の上をそよ風が吹きわたる。

ドドンドドンという太鼓やピーという笛の音が村境まで響いていく。

私は賽銭箱の係で、神輿の後をゆっくり ついて回った。地区の人たちの奉納や善意が今年もいっぱい集まった。

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2008年9月27日 (土)

社日講

23日秋分の日は秋の社日講であった。社日講は春と秋との年2回あるが、春の社日には五穀の種子をまつってその豊熟を祈り、秋の社日には稔った作物の初穂を供えて、感謝の意を表する。旧暦で春の社日は種まき、秋の社日は収穫の目安となっており、全国的には春分、秋分にいちばん近い戌の日をあてるといわれている。現在は春秋の彼岸の日に行われうことが多い。また下倉の社日講は田の神祭りを中心に行われる。

下倉地区には田の神像(このブログのタイトル画)があり、明治12年の建立となっている。法師像(農民型)としては最も古いといわれる。着物に袴、背に仏像の光背型の帽子、両手にメシゲ、短い棒を持ち、これを両膝の上に置き、中腰になっている。この建立以前の社日講は不明だが、春秋の祭りは行われていたと思われる。

下倉地区は5班(池内、学頭、上中、中間、岩崎)に分かれているが、各班で「お講神(庚申?)様」と呼ばれる神棚を祀っている。この由来については不明である。講の宿主がこの「おこしんさま」を次期社日講まで預る。社日講の段取りや準備等ははすべて講番と呼ばれる者二名が執り行う。当日の朝、講番は宿宅と開始時間を地区内にふれて回る。会費(以前は米など)を集める場合もある。この宿主および講番は輪番となっており社日講のなかで決められる。

Img_3638講番は社日講の早朝、田の神像の周辺を掃除する。ただし、共同で執り行われる神事の世話役を担う班の講番は除かれる。その神事は当日の午後3時から、粟野神社で行われる。各班の「おこしんさま」を持ち寄り、神社内殿に並べ、神主がお祓いをする。年一回、「おこしんさま」の紙切りを張り替える。また田の神に祭る竹の御幣2本と各家庭用(講員用)の御幣が配られる。この神事には公民館長および各班の宿主または講番が1名参加する。神事の後、簡単な直会(共同飲食)があるが、その準備(ビール、焼酎と肴など)は担当班の講番が輪番で行う。以前は各班ごとに当番の宿で神事が行われていたが、神主の日程調整が難しいことや費用の無駄などから、共同で行われるようになった。

Img_3641_2共同神事の後、「おこしんさま」を各班に持ち帰り、宿主宅で社日講が行われる。上座に「おこしんさま」を安置し、参加する講員はまずこれに拝礼する。お賽銭も準備する。全員が揃ったら講(共同飲食)が始まる。進行は講番が行い、会計報告や寄贈品を報告する。宿主や班長の挨拶、新加入者の紹介などがある。各班で協議事項がある場合はこの場で行う。飲み物や料理は班費から準備するが、宿主は必ず全員分の豆腐を準備することになっている。この「おこしんさま」と豆腐との関係には、何か深い意味があるのかもしれない。確証はないが、大豆、白色、清水などから神が宿ると観念されたとしても不思議ではないし、それを分配する意味もあるのかもしれない。

Img_3649一段落したところで田の神参りがある。神事で配られた竹の御幣とおにぎり、焼酎、料理などを持参する。参詣者は特に決められていないが、宿主または講番、農業従事者、班長など数名が参詣する。田の神像におにぎりを擦りつけ、お神酒と持参した料理などを供える。田の神の前でも共同飲食を行う。かつてはそこで踊りなども舞われたという。宿に帰宅後、参詣者がその報告や感想を述べる。田の神のおことばとして、その年の吉凶や様子などが面白可笑しく報告される。講の時間は各班でまちまちだが全体で約二時間ほどで終わる。

最近の住宅事情により、宿主となっても社日講を開く部屋がなく、公民館(写真)を借りて行う班もある。また宗教上の理由から参加を断る地区民もいる。この社日講は地区の懇親を深めたり、取り決め事を行う場ともなっているが、時代とともにその開催も難しくなってきている。

以下は『民俗学辞典』(東京堂出版)より
社日講の講とは本来、宗教上の目的を達成するために、信仰を同じくするものが寄り集まって結成している信仰集団であるが、社日講は村落の地域集団単位ごとに成立して、いちじるしく地縁性の濃厚なものである。また神道的な色彩の濃い講であり、山岳信仰や特殊な霊験をもつ社寺信仰によって発達してきた。講員を代表して参詣するいわゆる代表人を決めたり、その路銀を共同で出資することを決めるために定期的に当番の宿に集まって飲食をともにし、個人の信仰心を満足するとともにまたお互いの親睦を深めている。

この加入はなかば強制的であって義務的拘束性をともなうことが多い。いわば地縁共同体によって構成されているが、そのため地区の活動機能もすべてこの講を単位としてなされる場合が多い。山の神講、田の神講はその典型的な例で、村構成の地縁的単位として村組全員が参加している場合が最も多い。村の行事や規約をとりきめる村寄合を田の神講と呼んでいる地方もある。春秋の二季に全員が当番の宿に集まり田の神を拝んでからお神酒を汲み共同飲食する。庚申講もそれぞれ該当する日に終夜おこもりして会食談合することを行事内容としている。

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2008年6月23日 (月)

サノボリ

Img_3453  この地区には「サノボリ」行事が残っている。従来は田植後に田の神を送る祭りであった。サノボリのサは神々の総称であるから、サのつく信仰行事は多い。だからサノボリは、田植えを終え、田の神が帰り上がることだともいわれている(関東以北ではサナブリとも呼ばれている)。田植仕舞いの直会(なおらい)または休日のことでもあるが、今ではほとんどの農家が早期栽培で稲を植えているので、実際の田植えは3月頃には終わっている。今はもう青々とした稲が伸びている。ただこの時期に行う風習だけは生きている。

 今年は22日の日曜日であった。この日は早朝に近くの学頭橋で水神様への神事が行われ、その後、穆佐団地センターで地区民の球技大会(ミニバレーボール、ゲートボール)が催された。午後からは各班ごとに分かれて宴会がくりひろげられた。私も今年は班の世話役が回ってきている関係から、その準備で朝から大忙しであった。このサノボリ行事は、いってみれば、年に一度の地区親睦会である。かつては田植えは共同作業であった。「結(ゆい)」ともいわれ、日を定めて一家総出あるいは村総出で行われていたのである。そのつながりを確認する意味は今でも残っているのだろう。

Img_3452  球技大会には中学生から、もちろんお年寄りまで参加する。年々参加者が減ってきているとはいえ、総員150名ほどは参加しただろうか。小さい頃から知っている子どもたちが成長し、あるいは社会に出て、久しぶりに出会う場でもある。私もこの地区に住んで15年以上が経過したので、子どもたちの顔はだいたい覚えている。顔と名前の一致しない人たちもまだいるにはいるが、班ごとにチームを組んで競い合うので、チーム名でだいたい何処に住んでいる人かはわかる。

 この地区ではまだ3世代同居も珍しくはない。新しい家族も増えている。煩わしさもなくはないが、いろいろ話し込んでいくと、異業種の交流という意味でも、面白い話題や新しい知識が増えたりする。それぞれがそれぞれの場で苦労している話しを聞くと、また励まされたりもする。水神祭りでいただいた御幣を近くの畦に差したが、やはり豊作や家内安全を祈らざるを得なかった。

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2007年7月22日 (日)

夏祭り

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粟野神社の夏祭りで、高校生の演じる獅子舞について回った。ここ数年、獅子舞を演じる高校生が減少していて、その人数確保に苦労する。半日回っても、結構いいアルバイト料(1万円前後)になるので、希望する高校生も多いのだが、部活や進学校の業者テストなどで、なかなか日程調整が難しい。祭り優先とはいかないのである。

今年も人数が揃わなくて、結局、中学3年生まで駆り出して、何とか間に合わせた。粟野神社の夏祭りは、午前中は宮水流地区、午後は下倉地区を回ることになっており、獅子舞もそれぞれの地区の高校生が演じることになっている。しかし今年はその区割りができなかった。それで祭りに参加できる両地区の高校生に全員で回ってもらうことにした。

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獅子舞は地区内の辻や交差点、他地区との境界線上で舞うことになっている。それらは魔や邪が集う場所である。だからそこでお祓いをする必要があるのだ。と同時にこの時期、稲に害虫がつきやすく、虫送りの意味もあるのかもしれない。宮水流地区で6箇所、下倉地区で4箇所の辻や交差点、境で舞った。それ以外は各家庭を回り、幼子や住民の頭を噛んで悪魔払いや無病息災、家内安全などを祈願するのである。地区住民の方々は太鼓や笛の音が聞こえてくると、門口まで出て見えて、御輿や獅子舞が来るのを待っていてくれる。そしてお賽銭を口から入れてくれる。

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獅子舞は黒白の対になっており、頭と尾に二人入る。舞方はまずうずくまる姿勢から、太鼓の響き、笛の音に合わせて、口をカチカチいわせながら、内側と外側に頭を持ち上げていく。それから膝を着いた状態で左右に2回づつ噛む。さらに立ち上がって左右にすり足で運びながら、頭を回転させてやはり左右に2回づつ噛むのである。いかに鬣(たてがみ)を揺らし大きく見せるか、顔が真正面を向いているか、前後の足がきれいに揃っているかが、舞の見せ方となる。

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今回、興味を引かれたのは獅子舞の布地に描かれているデザインであった。緑地に白の渦巻き模様が獅子舞の布地の特徴である。全国ほぼ共通している。渦巻き模様は縄文式土器も含めて、世界各地の古い神殿や動物神のリレーフなどによく描かれている。何か霊的なあるいは超越的なエネルギーが付与されているのだろう。その模様は無意識の世界から渦を巻いてわき上がってくる力強いエネルギーのように感じられる。

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祭りの始発と終着には神社の境内を3回、時計回りに回る。くるくる回るというのはやはりトランス状態になり、あの世とこの世の通路を現出させる異次元空間の創出なのかもしれない。祭りや獅子舞の意味は深く、何度立ち会っても面白い。

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2007年7月19日 (木)

獅子舞

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今度の日曜日22日は粟野神社の夏祭りである。御輿巡幸に合わせて獅子舞が演じられる。それを担当するのが、地元の高校生である。その練習が昨日から始まった。

日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉〔ききん〕、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれている。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになった。獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師〔えどだいかぐらし〕」、「伊勢大神楽師〔いせだいかぐらし〕」と呼ばれる団体が全国を獅子舞を踊りながらまわり、悪魔払いをしたのがきっかけであると言われている。

獅子舞の起源は、インド地方と言われている。インド地方の遊牧民や農耕民の信仰で神として崇められていたライオンを偶像化させた獅子舞が生まれ、宗教行事の一つになったことが始まりと考えられている。その後、チベット、中国、東南アジアへ伝わり、日本へは、中国、中国本土、朝鮮半島経由、東南アジア・台湾・琉球経由の三つのルートに分かれて伝えれられた。その後、それぞれの地域の人々によって独自の舞い方が形成され、宗教的行事や地域のお祭りに欠かせない郷土芸能として定着した。

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽〔ぎがく〕系と風流〔ふうりゅう〕系の二つの系統がある。伎楽系は獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われている。本州中部以西の西南日本で多く見られる。風流系は関東・東北地方などで行われている鹿舞〔ししおどり〕と呼ばれるもので、鹿〔しし〕の頭をかぶり胸に太鼓を付けた一人立ちの舞いで、太鼓を打ちながら踊るものである。(日本文化いろは事典より)

以上が一般的な獅子舞の解釈であろう。獅子舞も神楽の一演目である。神楽の一流儀として神官が獅子舞を伴い氏子の家々を廻って<御祓(おはらい)>を執り行なう。この神事を称して大神楽と言う。村内各戸で竈祓い(かまどばらい)を行う際に獅子舞を舞うとともに、村内産土神社境内等で、総舞と呼ばれる芸能を披露する。

しかし、私には獅子という想像上の動物と仮面、渦巻き文様など、その原初形態は神懸かり(トランス状態)になり、超越的な存在に成り代わることに意味があったような気がする。もちろん邪を払うという役割も大きかったであろうが、周囲の者は、それを見つめて、不可視の神に触れる、触れられるという状態(関係)を創り出し、自ら生まれ変わる、新たな力をもらうということに意味を見出していたのではないか。それが祭りの本来の意味でもあったのではないか。

獅子舞を若い青年(高校生)がやることも、何か深い意味が隠されていたような気がする。練習では神楽の基本的な舞方、すり足の仕方、面の位置や向き、震え方など、細かな指導がなされた。

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2007年5月12日 (土)

本庄石仏

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国富町田尻地区にある松森山の岸壁に石仏が刻み込まれている。高さ6メートル、肩幅1.6メートルと県内でも最大級の磨崖仏である。その端麗な姿から薬師如来像といわれており、右手を上げた施無畏印は民の恐れを去らせ、無病息災を念じている形だと伝えられている。
以前は数体の石仏があったと記録されているが、柔らかい岩質のため摩耗が激しく、現在はこの薬師如来像と日羅上人像の2体しか確認できなかった。途中に不動明王と観音像の2体が相対して刻み込まれた巨岩が山門代わりにあり(像は風化して不明)、不動明王の持つ剣先には生首がささっていたと説明板には記されていた。

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しかし、私の興味は日羅上人像であった。その石像は椎の巨木の空洞に安置され、というより、刻み込まれた岩石を巻き込むように根が張っており、それが胞衣(えな)と胎児に見えたからである。石と樹木の組み合わせは、いわゆる「宿神」の姿ではないか。古層の神であり、中沢新一のいう「胎生学的思考」の形である。その空洞はヴァギナに見えないこともない。前には歴代の僧侶の墓石が、「荒神」を見守るように並んでいた。

今年の春、都市部に異動したが、4年間通勤した路沿いの近くにこんな貴重な石仏があることを迂闊ながら知らなかった。普段はほとんど訪れる人もないのであろう。深閑とした林の一角に石仏は佇んでいた。

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2007年1月14日 (日)

里山づくり

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「ひむか里山の森づくり」に参加した。
住居近くの国有林が「悠々の森」に指定してあり、NPO法人が里山づくりを目指しているのである。 里山とはかつて生活の糧を得る場所であった。薪炭材やお椀、家具、椎茸の原木、下駄、薬用、食料、櫛、箸、玩具など、生活に必要な道具類を提供する場として親しい場所であった。 それだけ人間と樹木との対話がなされていたはずである。当時の面影をいくらかでも体験できたらと思い参加してみた。

「木」は「気」だとも言われる。樹木は人の映し身でもある。その姿形を人間のそれと対応させてとらえてきた。芽は目、葉は歯、花は鼻、実は耳など発音も似ている。 樹木と人間とは同じものから分かれたという観念があったのかもしれない。恐らく、黒潮に乗って南の島々からやってきた痕跡がその命名に残っているのだろう。

だからそれはもの言う存在なのである。日本書紀にも「葦原中国は、磐の根、木の株、草の葉も、なおよく言語(ものい)ふ」とある。そのものいいに人々は耳を傾けてきたはずである。 巨木を見ると霊的なエネルギーを感じるのは日本人だけではないだろう。

紀(木)の国の巨人、民族学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)の名は、家系として楠の木を祖霊としてきたことからつけられたという。群馬県にも一本の赤松を祖霊神として崇めている一族があり、毎年、氏神祭りを行うという。 樹木に関わる民間伝承には、神社仏閣にかかわらず、信仰と暮らしに密接に関連する内容が多い。樹木の人間の暮らしに与える恩恵は計り知れない。

楠は中国原産で、仏教伝来(仏具や柩などの材料)とともに、南方から入ってきたということを聞いた。だから尾根筋の路沿いにこの木をよく見かけられるのだという。常緑高木で信仰に関係してきたことなどから、御神木として自然崇拝の対象にもなったのだろう。

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今日は山の神に許しを乞いながら、雑木の伐採と整理を行った。生活と密着した里山づくりは様式の変化などからなかなか困難かもしれないが、山に入ることで樹木との対話が続けられたらと思う。

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2006年7月28日 (金)

斎場ウタキ

沖縄出張の最終日、半日ほど時間が空いたので、タクシーを貸し切って沖縄本島中南部を散策してみた。北中城村の中村家住宅、中城城址、南城市の斎場ウタキ、知念岬、糸満市の平和記念公園、摩文仁の丘などである。

久高島に渡ってみたかったが、フェリーと飛行機の時間帯が合わず、今回は断念せざるをえなかった。しかし、斎場ウタキから見た久高島は最高であった。はるか東の海の彼方にあるニライカナイ、そこからやってくる来訪神が最初に上陸する島が久高島である。

12年に一度行われていたイザイホーはすでに後継者不足で廃れているが、その神聖な儀式の記憶は、私の想像のなかにも生きている。神に我が身を捧げた女性たち、男子禁制を貫き通し、部外者の調査も頑なに拒否してきたこの習俗は、沖縄の歴史、文化、民俗のなかでも、何より神聖な祭りごとのひとつとして刻み込まれている。

澄んだ青空と紺碧の海、リーフでできた島影、珊瑚の石灰岩、亜熱帯植物、鳥の囀り、蝶の乱舞、その神聖な空間から見渡す久高島はまさに絶景であった。世界遺産の一角に指定されたということだが、世俗に荒らされないことを切に願った。

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2006年7月23日 (日)

祭りの中止

昨日の大雨も峠を越えた。
大淀川支流の瓜田川や江川の水量も減り始めている。ただ、案の定というか、穆佐小学校はグランドが水に浸かり、まだところどころ水たまりができていた。近辺の住宅も床下まで水が迫っていた。橋の欄干にも濁流のあとが残っていた。

実家のあるえびの市も避難所からの帰宅が許可された。午前中で自宅に戻ったと電話もあった。とにかく今回は川内川の増水が尋常ではなかったらしい。堤防も高く造ってあるが、今にもあふれんばかりのところまで水位が上がり、決壊するのではないかと怖かったという。梅雨前線が北上したことでひとまず胸をなでおろした。

ただ、本日は近くの粟野神社の夏祭りの日であった。午前中はまだ雨が降り止まず、祭礼のみでご神幸行列は中止になった。楽しみにしていた子ども御輿も取りやめとなり、昨日の奉納相撲といい、子ども会の大きな行事が今年はできなかった。

これも地球温暖化の一現象なのか、地球規模で自然が破壊されつつあるのかもしれない。祭りができなかったということが、不吉なことの起こる前ぶれにならないことを祈りたい。

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2006年3月21日 (火)

社日講

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下倉地区でも早期水稲の田植えが始まった。1週間ほどまえから田には水が張られ、苗の生育と気候などから、いつでも田植えが行える状態になっていた。今日は朝早くから田植機が水田に入り、うなりをあげていた。

そして彼岸の中日に今日は、春の社日講の日でもあった。このあたりでは春と秋の年二回彼岸を中心に社日講がもたれる。この下倉地区では「田の神祭り」とも呼ばれ、五穀豊饒と家内安全、無病息災などを祈願する。これはまた地区の寄り合いも兼ねている。

社日講には宿主1軒と、飲食等の準備をする講番と呼ばれる2軒が決められている。また地区内の各班には「おこしんさま」と呼ばれる木製の祠が保持され、社日講当日に宿主の家に置かれて拝まれる。

その「おこしんさま」は以前は各班毎に宮司がまわり、祈願祭(神事)が行われていたが、数年ほど前より粟野神社に持ち寄り、合同で行われるようになった。各班の出費や宮司の煩雑さからそのように変更された。各班の講番が「おこしんさま」を持ち寄って、3時から神事が行われた。講番のうち輪番で決められた班がその神事の直会の準備もする。

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その後、御幣2本を持ち帰り、宿主宅で社日講が行われる。頃合いをみて、地区内にある「田の神様」(石像)に班員数人がおにぎりや焼酎、肴、御幣などを持参し、お参りする。田の神におにぎりなどを供物としてなすりつける。以前は子ども達がお供え物目当てに集まり、大人がいなくなった後は競い合っていただいたという。田の神参りから宿に帰った者は、今年の稲の出来具合など神の宣託をおもしろおかしく報告する。

ただ高齢化がすすみ、社日講も寂しくなりつつある。また、新築の家ではかつての大家族を想定した間取りになっておらず、宿になることを敬遠するところも出てきた。宗教、信仰上の問題もあり、地区の寄り合いを兼ねることも難しくなっている。地域コミュニケーションを図る上で大事な行事であるが、これも時代の波に流されつつある。

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